世界の終わり

1

世界が終わる日が来たのだな、とぼんやりと草子は思った。

それは水のように自然に草子の頭の中に染み込んだ。今日終わるのだ。全てが。

草子は自分しかいない小さな部屋で、ひとり目覚めた。
そのときには答えはもう用意されていた。
抗いはしなかった。
答えはずっと望んでいたものだった。
今日は草子が待ち望んでいた世界が終わる日なのだ。

草子はベッドの中でしばし過ごした。
すぐ起き上がることは出来なかった。
記憶の底から湧きあがってくるものから目を背け、押しつぶし、平静であるように勤めた。
そしてなすべきことを為さねばならないと自分に言い聞かせた。

草子はもぞもぞと起き出して、寝間着から部屋着に着替え、まず洗濯をした。
洗濯をしている間に、掃除をして、洗いあがった洗濯物を干し、そうして一心に家事をしていると時間の経つのが早かった。
すぐ昼になり、草子は昼食の準備をしようとしてやめた。
どうせ作っても全てごみ箱行きだろう。
部屋を整頓すれば心も整ったような気がする。
多分、それはただの気のせいで、ずっと決めていたのだ。
今日が世界が終わる日だと。

部屋の中には物が少ない。
必要最低限のものをシンプルにそろえただけの部屋は、生活の匂いが薄く、慣れていないものには落ち着かないだろう。部屋が人を表すなら、まさに草子は味気ない人間だということになるのかもしれない。
ものが少ないのは捨ててしまうからだ。
捨てずにはいられないからだ。
捨てなければ部屋には不要なものがどんどん溜まっていく。
必要なものをいつしか不要なものになるのだから、それを捨てなければ部屋はごみため同然になって行く。
それには耐えられない。
荒廃に、草子は耐えることは出来ないのだ。
荒廃、草子はふさわしいと思った。
まさに今の自分は荒廃している。荒んでいる。心がどこか変になってしまっている。
ひびの入ったコップだ。
割れずともそのひびの間から水が染み出ていく。
少しずつ、しかし確実に。
滴って零れ落ちていく。
心の中から何かがぽろぽろと零れ落ちていくのだ。

時計を見れば、もう三時を過ぎようとしていた。
時間が過ぎるのが早い。
けれどこんなものかもしれない。
世界の終わりは、静かに淡々と訪れるのだろう。

草子はシャワーを浴びた。
支度をしなければならない。
バスタオル一枚で、シャワーから上がった草子は、テーブルの上に化粧箱を載せて、開いた。
今日はとびきりきれいに装おう。
きれいな自分を見てもらうためでなく、自分が崩れてしまわないよう、心を固めるために、丹念に丁寧に化粧しよう。
化粧下地を薄く伸ばし、ファンデーションをつける。リキッドを指で手早く伸ばす。
皮膚に馴染んで、少し強化された顔になる。
礫の盾になるのだ。
斑が無いか鏡で入念にチェックする。ついでに顔の産毛も剃刀で落とした。
眉は手を入れなかった。これ以上細くはしたくない。
アイシャドウは極力色味のないものにして、陰影だけをつけた。
アイラインで目を縁取り、ビューラーでまつげを上向かせ、そこにマスカラを塗る。
草子は一瞬ためらって、いつもは使わないものを手に取った。
ウォータープルーフのそれは、涙にも崩れないはずだった。
チークやブレストパウダーをはたき余分な粉を落とす。
手の平を頬に当てた。
しばらくそうして暖めていると、本当に自分の皮膚になったようだった。
しっかりと包んで、保護していて欲しい。

それから服を選んだ。飾り気の無い黒いシャツと、色あせた丈が短めのパンツ。
下着は新しいものを下ろした。
女性はどんなに薄汚れた服装をしていても、下着までそうとは限らない。秘密めいて、男物のシャツの下に黒いレースを覗かせる。

そんなものだ。
外から見ただけでは、中に何があるのか、誰も気づかない。
知らないまま通り過ぎていくのだろう。
しかしそれでいい。
草子自身が知っていることが、草子は肝心だと思っていた。
草子に訪れる世界の終わりは、決して全ての人々の世界の終わりではない。
ただ、草子の世界の終わりに過ぎない。
草子がなぜ終わりを迎えるかも、この地上で生きているほとんどの人には関係が無い。
草子はすっかり支度を終えて、鞄を用意し、電話を膝の上に置いて座った。

電話は、それから十四分後に鳴った。

2

草子が倉橋雅巳に会ったのは丁度一年前の春だった。
雅巳が草子の研究室に顔を出したきっかけは何であったか、もう草子はよく覚えていない。
草子が所属する研究室は、法学部棟の三階の片隅にある。
北向きで、一日中日が入らない暗い部屋の中で、草子は初めて雅巳に会った。
雅巳は草子の研究室付きの助手の土村と親しく、それからもしばしば研究室を訪れるようになった。
雅巳の訪れはいつも突然だった。

初めは会釈をする程度だった。
雅巳は、理学部で大学院上がりで講師をしていた。
薄茶色の細い髪を短く整えて、細い銀縁の眼鏡をかけている、その風貌は見るからに神経質そうだった。
草子は雅巳が来る度に、訳も無く怯えた。
二言三言会話を交わせるようになると、草子は雅巳がひどく美しい顔立ちをしていることに気づいた。
前髪が長めにかかる眼差しはくっきりとした二重で、睫が黒く縁取って彫りこまれた中に、深い飴色の瞳がうっそりと息づいていた。
差し込む光によって澄んだ琥珀から淀んだ鈍色まで変化した。
草子はまるで人形のようだと思った。
雅巳の顔は整いすぎて、雛人形のようだった。

雅巳も交えた数人で食事に出かけるようになった頃にはもう夏になっていた。
雅巳は話術に長け、知識は豊富で、場に上った疑問に対する答えを全て持っていた。
しかし、それを自ら提示することは無く、求められて初めてその答えを披露する。
場が間違った答えで落ち着いても、雅巳はそれを指摘しようとはしない。
自ら関わることは無く、求められたときだけその高い能力の片鱗を覗かせた。
「あいつは意地が悪いんだよ、ネコかぶってるから余計始末に負えん」
土村は苦笑混じりに雅巳を評した。
雅巳とは正反対のずんぐりとして厳つい土村は蓄えた髭を撫でるのが常だった。
「あいつと友達づきあいしてても、俺が付き合ってもらってるような気がしてくるわ。草子も騙されんようにな。あいつのいいように玩ばれるぞ」
土村は草子を妹のように可愛がっていた。
「冗談は止めてくださいよ」
何度か土村の忠告は繰り返された。

夏が終わりかけた夕暮れ、研究室で草子と雅巳は二人きりだった。
雅巳はいつものように土村に用事があり、研究室には草子以外誰もいなかった。
「志藤さんはいつも憂鬱そうだね」
雅巳は背が高い。自然顔を下向けて話すところを、雅巳は顎を上げたまま、目線だけを下げて話す。
すると、長く密になったまつげが雅巳の瞳の色を一層深く見せる。
「・・・・・・そんなこと無いですよ」
草子は曖昧に笑った。
元来、消極的で受身であることに慣れた草子だ。
雅巳は行動派で、思い立ったらすぐ行動する性質で、またそれを着実に実行し、成功させるだけの能力を持っていた。
周囲のものがまごまごしている間に全てひとりで解決してしまう。
そしてそれを当然のように思っている。
そういう雅巳のことがわかりかけていた頃に、雅巳は草子にそう問い掛けた。
「そうかな」
クーラーが軽く唸った。
もうすぐ秋のはずなのに熱さはあまり衰えず、夕方になってもうだるような日々が続いていた。
草子はクーラーを低めに温度設定し、長袖のカーディガンを羽織っていた。
雅巳は夏でもあまり肌を露出しない。
この日もインナーの上にシャツを羽織っている。

雅巳が言葉に込める意味は暗号化されている。
草子はその一言に不穏なものを嗅ぎ取って、むきになって続けた。
「誰もが倉橋さんみたいにアグレッシブなわけじゃないんです」
アグレッシブか、と雅巳は笑った。
雅巳の声は時折低く掠れて、ゆったりとした喋り方と相まって、大型の肉食獣を想起させる。
こういうところが嫌いだ。
草子は自分を叱咤する。
「憂鬱って、どんなところを指してそう言うんですか?」
「僕が研究室に入ってくると親の敵みたいに僕を睨むよね」
「え?」
草子は雅巳の飛躍に付いていけず、雅巳の唇を見つめた。
雅巳の唇は薄く、雅巳が日頃周囲の人間に投げつける酷薄な言葉に相応しい。
「僕が来るのを待ってるみたいだ」
雅巳はその酷薄な口元へ手を持っていき、軽く咳をした。
「・・・大丈夫、ですか?」
雅巳は咳がおさまってから、草子を断罪した。
「僕を待ちわびて憂鬱そうだ」
雅巳の口元を抑えていた手は、腱が浮いて、強靭だった。
肉の薄い白い指が、器用であることを草子は知っている。
時にはピアノを弾く指先は白く硬い。
伏目がちに、視線をはぐらかし、相手を翻弄する。
計算され尽くした雅巳の仕草と言葉は、やはり計算どおりの反応を草子から引き出すのだろう。

遅い夕暮れが暗い部屋を更に暗くする。
クーラーのかかった部屋は寒いほどだった。
急に空気が粘度を持って絡み付いてくる。

雅巳は草子の耳元に手を伸ばした。
草子はぎくりと身を強張らせた。
草子の耳たぶを掠めて、肩越しに、雅巳の白い指がクーラーのパネルに触れた。

耳たぶがちぎれるかと思った。

「クーラー、消したほうがいいよ」
雅巳は掠れた声で草子の耳元で呟き、もう一度軽く咳をしてから、 「土村に、また今度って伝えておいて」
研究室を出て行った。

草子は雅巳の足音が聞こえなくなるまで身じろぎできなかった。
怖かった。
雅巳が怖かった。
雅巳が草子に突きつけるものが怖かった。
けれど雅巳の一挙手一投足を全身で感じ取ろうとする自分がいる。
あの視線に怯えながらも、雅巳を漏らさず知りたいと思う自分がいる。
草子はこれまで強い感情をほとんど持ったことが無かった。
それは初めて草子が感じた強い欲求だった。
草子は胃の辺りが重く熱くなるのを感じた。
雅巳は草子が知らない草子を知っていた。
そして草子を翻弄することを楽しんでいるようだった。
新しいおもちゃを見つけた子供は壊すまでそれで遊ぶだろう。
雅巳は万能であるゆえに残酷だった。
残酷だから無邪気なのだ、と草子は思った。

3

それからしばらく、雅巳は研究室に顔を出さなかった。
最初のうちはほっと胸を撫で下ろしていた草子も、それが一週間を過ぎ、二週間目も半ばに入ってくると、落ち着かず、滲む焦燥感を抑えきれなかった。
雅巳のことを待っているわけではない。
草子は自分にそう言い聞かせる。
彼の言葉が真実であることなど、あってはならないのだから。
ただ、あんな尻切れトンボな別れ方をしたから、すっきりとしないだけなのだ。
会って、雅巳に、そんなことはない、と、雅巳のことなど何とも思っていないのだと、そうはっきり告げることができれば、このもやもやは晴れるのだろう。
だから、早くここにきて欲しい。
「草子、お前変だぞ」
研究室の扉が開くたびに、びくりと音がしたほうを見やる草子に、土村は呆れたように言った。
「だって・・・・・・」
「だって何だ、一体。ここんとこいっつも研究室にいるだろ」
草子はそんなに授業が詰まっているわけではないから、学校に始終いる必要はない。それどころか、研究さえ順調であれば、週に二度三度顔を出すだけでも良いのだ。
そして実際、草子は研究に行き詰まって、学校に拘束される羽目に至っているわけではない。
土村自身は、学校が好きで、朝起きるととりあえず学校に行ってしまうような性質だが、今までの草子はそういうことはしなかった。
草子は、割合内向的だ、と土村は思っていた。
ひとりで過ごす時間を大切にする。皆と一緒に騒いでいても、ふっと、ひとりで部屋を出て行く。気づく前に戻ってくるから、ずっと一緒に楽しい雰囲気を味わっていたと、そう思うが、いつも一歩引いている。
土村は、いつも草子が、そうして少々申し訳なさそうに、そっと部屋を出て行くのを見ていた。その軽く謝る後姿をいじらしいと思っていた。
誰しも自分の世界を持っている。多分、草子の世界は、ひっそりと穏やかで、静かな優しい世界なのだ。それを理解してやることは、とても大切なことだろう。
「・・・・・・茶でも飲むか?俺がうまい茶をいれてやろう。まぁそこのソファーにでも座って待ってなさい。」
研究室には廃材利用の応接セットが置かれている。そのせいでただでさえ狭い室内がより狭くなるのだが、捨てられない。
こくり、とうなずく草子の肩から細い髪が零れ落ちた。
素直に長椅子に腰掛ける。
もうすっかり夏は過ぎようとしている。涼しくなった風が草子の髪を揺らした。
柔らかく細い髪は、肩を少し過ぎた辺りで切りそろえられてある。
あまり流行りに迎合しない草子らしく、まっすぐに整えられた美しい髪だった。額の真中から、邪魔だったのだろう、耳にかけた髪は太陽に透けるとほんのりと明るい栗色になった。
土村は部屋に備え付けのポットから急須に湯を注ぐ。
それをじっと待っている草子の瞳はあどけなく、幼く見えた。つつましく収まった鼻、その下のほんのりと赤い唇。普段からほとんど化粧をしない草子は、せずとも充分なみずみずしさを持っていた。
(そういえば、研究室のコンパのとき、化粧してきた草子は別人みたいに大人っぽかったな・・・・・・)
ぼんやりとそんなことを考えていたので、手元に湯が零れた。
「あちっ」
草子ががたんと大きな音を立てて椅子から立ち上がる。
「つ、土村さんっ?」
「あー平気平気」
土村は毛がもじゃもじゃと生えた厚い手を冷ますように大きく振った。
「俺もそそっかしいな」
はは、と笑ってから、急須と湯飲みを机の上に移動させた。
「そういえばさ、最近、雅巳来てないなぁ、ここ」
草子は身のやり場が無くなって、大人しくまた椅子に座った。
「・・・・・・忙しいんですか、倉橋さん?」
「ほい」
土村が二つの湯飲みに交互に茶を注ぐ。
「忙しいらしいよ。学会発表の準備とかで」
土村に渡された湯飲みを草子は覗き込んだ。透き通る緑色の底のほうに淀んだ緑の塊が蹲っている。
「そうですか」
「雅巳がさっきの俺みたいなドジやってるとこは見たこと無いな。ほんとにあいつはオールマイティーだからねぇ。理系の割には文学青年だし、どうでもいいことよく知ってるし」
土村は熱い茶をずるずると啜る。
「でもさ、いつだっけなぁ?あいつ、ひとつのことに熱中すると、寝食忘れるんだわ。それで、いきなりえーと、どこだ、あれは?ファミレスかな。飯食った後に、眠い、寝るっつって、そのままファミレスで五時間爆睡したんだよ」
草子も土村に倣って、茶を啜ろうとして、少し火傷した。舌がひりひりする。
「五時間て凄くないですか?」
「そう、それで俺も他の奴らも雅巳置いて帰っちゃったの。それで、次の日あいつがどんな醜態曝したかと思ってさ、楽しみに訊いたのよ。そしたら」
土村は眉を吊り上げた。
「ぐっすり眠れて、すっきりした、って言うんだよ。店員に注意されなかったか?って訊いたら今度は、別に、って。あいつあの面だろ?ファミレスなんか店員若い女の子ばっかりだろ?だからさ」
草子はふいに胸がむかむかした。むかむかする。
土村の言葉を遮った。
「・・・このお茶、熱くて飲めません」
「あ、そう?」
(八つ当たりだ・・・・・・)
草子は湯飲みをぎゅっと握り締めた。
その時、キィと扉が軋んで開いた。
土村がそちらに首を向けるのがスローモーションで見えた。
猫のように静かな足音で、現れたのは、 「久しぶり」
雅巳だった。
草子はとっさに顔を伏せようとして、ぶつかった雅巳の視線に焼かれた。
遅れて俯く。
「よぉ、どうだい、調子は?」
雅巳は当然のように、草子が座っている長椅子の隣に腰を下ろす。
「一段落。僕にもお茶」
はいはい、と土村は立ち上がる。
草子は隣に腰掛ける雅巳を見遣ることが出来ない。
早く土村に戻ってきて欲しい。
うまく会話をすることが難しい。
(ほっぺた、熱い・・・・・・)
「志藤さん」
草子はぎしぎしと音がしそうな身体を必死で動かす。
首を曲げる。
雅巳のほうに向ける。
「・・・・・・はい?」
雅巳の目の下にはうっすらと隈があった。
疲れた様子で、眼鏡を外す。
「僕、今気づいたんだけど、眠いらしい」
「・・・・・・・・・はい?」
雅巳の体が傾いで、ゆっくりと、雅巳の頭が草子の膝に納まった。
草子は硬直する。
そこに、土村が湯飲みを持って戻ってきた。
「・・・・・・それ・・・・・・」
「・・・・・・寝ちゃったんですけど・・・・・・」
「うん・・・・・・」
草子の柔らかい太ももに頭を押し付けるようにして、雅巳が深い寝息を立てている。
「・・・・・・こうなったら、こいつもう起きないんだわ・・・・・・」
どかすよ、と土村が湯飲みを置いた。
「あ・・・いいです。このままで」
「よくないよ」
土村の声が少し不機嫌になる。
草子はそれを感じつつも、土村に言った。
「疲れてるみたいだから・・・ちょっとだけ労わってあげます。恩着せとかないと」
土村は不承不承納得して、ソファにどすん、と腰を下ろした。
草子から雅巳の顔は見えない。ただ膝の上にある重みが無くなるのは淋しかった。雅巳があの衝撃的な双眸を閉じていれば、心臓が暴走することも無かった。
(そう、あたしは何とも思っていない・・・・・・)
草子は何度目かわからず心の中で繰り返す。

そこで草子にひとつの疑問が湧いた。
「・・・・・・ひょっとしてこのまま五時間ですか?」
土村は重々しく頷いた。

4

草子は夢を見ていた。
幼い頃の夢だった。
いつも見る夢だ。草子はそう思う。

古い家があった。
門構えは朽ちて、人の住む気配の欠片も無い、その家の壁は、漆喰がぼろぼろと剥がれ落ちていた。
草子はその家の中に入っていく。
薄暗く、かび臭い廊下を歩く。
幼い足の下で、床板がきしきしと音を立てる。
廊下は長く、先は暗かった。
草子は探していた。
けれど何度呼んでも応えは無く、草子は泣き出す。
埃の積もった廊下にしゃがみ込んだ。
うっすらと白くくすんだ床に涙の染みができる。
一つ二つと零れて、それはすっかり床を覆い尽くして、草子は真っ黒な穴を落ちていた。
どこまでも落ちていく。不思議と恐怖は無く、草子は、落下する底に向けていた顔を、穴があるはずの上へと向けた。
そこには映画館のスクリーンが広がっていた。
落下する速さより早く遠ざかるスクリーンに、忘れていた風景が映し出されて、消えた。

「・・・・・・志藤さん・・・・・・」

草子はうぅん、と唸った。遠ざかる風景は今や粉々に割れて、再生することは出来なかった。
(待って・・・・・・)
待って欲しいと、手を伸ばす。
それを、そっと握り返される。ひんやりと冷たい感触がした。さらさらと乾いて、するりと逃げていきそうなそれを、堅く握る。
(行っちゃ厭だ・・・・・・)

「・・・・・・草子」

強く握るほど、去っていくことが約束されているようで、草子は新たに涙を流した。
小さな草子は、声を押し殺してただ涙だけを零す。
強靭な指は草子の柔らかな手を握り返してくれたのに。
(ごめんなさい・・・ごめんなさい・・・・・・だから行かないで。ごめんなさい。草子が悪かったの。だから)
頬に同じ冷たい感触があって、そっと雫を拭い取る。

「草子」

草子ははっと目を開けた。
濡れた頬に右手を当てる。
(あたし、泣いてた・・・・・・)
どうして、と思ってから、自分の左半身がほんのりと温かいのに気づいた。
まだぼんやりとした視界に、力無く放り出された自分の左手が、大きな、腱の浮いた手を握っているのが見えた。
草子は離れがたい温かさに凭れ掛かったまま、握っている手を上へと辿っていった。
すると、それは草子の凭れ掛かる先へと繋がっていた。
(え・・・・・・)
草子はしどけなく凭れ掛かっていた身体をやんわりと起こす。
そして身を預けていた温もりを見た。
「・・・・・・起きた?」
草子に握られたのとは逆の手で、落ちてくる前髪をかきあげたのは雅巳だった。
どくんと心臓が大きく拍動する。
すっかり力の抜けた身体はそれだけで貧血のように、更に頼りないものになった。
雅巳は伏目がちに草子の膝を一瞥した。
草子はその視線を追って、自分の膝元を見る。すると膝丈のスカートが捲れ上がって、太腿が半ばまで露になっている。
「キャ・・・・・・」
草子は慌てて、スカートを直そうとする。その時左手がくんとひっぱられた。雅巳だ。
「あ、あの・・・・・・」
うまく状況が飲み込めないのと、恥ずかしいのとで、草子の頬が赤く染まる。雅巳はくく、と喉で笑ってから、草子の肩口に顔を埋めた。
草子の耳元に吐息が触れて、腰のあたりがぞくりとした。
「あ、あの!」
「・・・・・・何?」
雅巳はくつくつと草子の肩に頭を預けて笑っている。相変わらず握った手を離してはくれない。
柔らかい雅巳の前髪が首を擽って、草子の声が上ずる。草子は耳まで真っ赤になっている。
「なん、で」
こういうことになっているんですか?と続けることは出来なかった。心臓がうるさく鳴る。それが言葉を阻む。
「僕が起きたら、志藤さんが寝てた」
雅巳は掠れがちな声で囁く。
「そしたら僕に寄りかかってきて・・・起こすのもかわいそうだったから」
声に笑いが滲む。
すっかり日も落ちて、時計を見れば針は九時を指していた。
確か土村と茶を飲んだのは夕方前だったはずだ。
(寝過ぎ・・・・・・じゃなくて、そうじゃなくて)
草子はいささか混乱している。
「土村は・・・えーと、メモがあったな。・・・教授から呼び出された。お前らいい加減起きろ、って書いてある。これが・・・・・・六時」
雅巳はテーブルから取り上げたメモを指ではじいた。ひらひらと舞ってもう一度テーブルの上に収まる。
(草子、って呼び捨てにしたよね、さっき・・・・・・)
犬が顔を摺り寄せてくるように、雅巳は草子の首元にその尖った顎を摺り寄せてくる。草子は収まらない震えと上昇する体温に眩暈を覚える。
くらくらと、頭の芯が痺れる。
「志藤さん、僕、何か食べに行くけど、一緒に行こう?」
声はまるで遠くから聞こえた。
草子はやっとのことで小さく頷いた。

大学の近くのファミリーレストランから大学に向って草子と雅巳は歩いていた。たまには歩きもいいだろうと、雅巳が言ったからだ。
(何食べたか覚えてない・・・・・・)
雅巳に言われるままもつれる足で店へと向かい、注文して食事をした。その記憶の曖昧さに草子は驚く。
正面に座った雅巳はいつもと同じ崩れたところの無い凛とした風で、それに見惚れていた。
必死で何でもない振りを繕って、けれど雅巳の何気ない仕草一つにも目を奪われていた。
多分、雅巳にもそれは露見している。
なぜか草子は雅巳に逆らえない。
見えない磁力でもあるように、雅巳に惹きつけられる。
それを恋と呼ぶには草子は経験が不足していたし、何よりその吸引力は尋常な範疇を超えているように思われた。
無条件降伏。まさにそういった雅巳に対する無力感があった。
雅巳はゆらゆらと泳ぐように草子の前方を歩いている。
すらりとした腰から、長い膝下。少し肌寒くなった。雅巳のジャケットがめくれて、そこを車のヘッドライトが照らす。
過ぎる車を見た横顔は、青白く美しい鼻梁から唇へのラインが滲んだ。
草子はこの一時の予想外の楽しさに、つられて思わず口を開いた。
「倉橋さん、あの、ありがとうございました」
雅巳は横顔で微笑んだ。
「何のこと?僕も珍しいものが見れて、面白かったよ」
草子は、雅巳の言葉に不穏なものを感じて問い掛けた。
「珍しいもの、って何ですか」
雅巳は立ち止まった。つられて草子も立ち止まる。振り返った雅巳の顔は、車の通りの絶えた歩道の上で、陰になって見えなかった。
街頭の白茶けた灯りが雅巳の影を伸ばす。真っ直ぐに草子へと伸び、影は草子の脛を這い登った。
「どうして泣いてたの?」
草子は息を飲んだ。ひゅ、と喉が鳴った。

濃密な黴の臭い、軋む廊下。
誰も居ない冷たい空気。

「夢は夢でしかないと思うかい?僕はね、君が泣いていた訳を、多分知っている。君に僕が感じているものの理由も」
雅巳の顔は見えなかった。声だけが秋の空気を揺らしている。
「けれど、それは僕が思い出すことじゃ、無い」
車のヘッドライトが通り過ぎる。
空気が押しのけられる。
草子の前髪が押されて、ふわりと形の良い額が露になる。
一瞬だけ雅巳の顔がヘッドライトに照らされる。
雅巳は笑っては居なかった。
いつもの皮肉気な表情ではなかった。
真摯な瞳が草子だけを見つめていた。
ヴン、と車は通り過ぎて、また暗闇が雅巳の顔を覆い隠した。

(ごめんなさい・・・ごめんなさい・・・・・・だから行かないで。ごめんなさい。草子が悪かったの。だから)

草子は足元がぐにゃりと歪んだのを感じた。
歪んだ地面が草子に迫ってくる。
意識が遠のいた。
しかし、草子を抱き留めたのは堅いアスファルトではなかった。
草子は雅巳に抱き締められていた。
雅巳の腕は揺ぎ無く草子を抱きとめて、草子はその胸の中で喘いだ。
その草子の手を雅巳は取り、脈打つ手首の内側に唇を寄せた。
「・・・・・・んっ・・・!」
きつく吸い上げて、噛み跡を残した。
雅巳の瞳は潤んで濡れていた。
「ヒントはここまで」
草子の眦から涙が零れ落ちた。
これは何の涙だろうと草子は思った。
雅巳に草子が感じていたものは、必然であったと、そう雅巳は言っている。
そして全ては草子の中にあると、そう言っている。
草子の大きなアーモンド形の目から、次々に涙が零れ落ちる。
(世界に落ちたときに、初めて流す涙みたい、ね・・・・・・)
生れ落ちて泣き喚く。ここにあると。世界の理に縛られて、ここに居ると。
手首の痛み、赤く散った烙印、雅巳が草子から掘り出そうとする草子の知らない草子。
「僕は明日から学会でカナダに行くよ。そのまま二週間は帰ってこない。その間に」
風が冷たかった。
雅巳と触れ合った部分だけが温かかった。これまで感じたことの無い安らぎが雅巳の腕の中にあった。
雅巳を見つめるときの、例えようの無い不安と切迫感。
今は払拭されて、懐かしさと愛しさが込み上げていた。
恐れていたものは雅巳でなく、雅巳によって引き出される見知らぬ自分だ。
忘れていた自分が、雅巳の姿で草子を詰る。
雅巳は喉の奥から声を絞り出した。
「思い出して、忘れてしまったことを、草子」

5

雅巳は日本を発った。
雅巳の言葉がリフレインする。
絶え間なく木霊する。

(思い出して、忘れてしまったことを、草子)

何を忘れてしまったのか。雅巳が何を思い出せといっているのか、草子には見当もつかなかった。
草子の左手首の内側には、雅巳が残した傷がはっきりと残っていた。鬱血と、血の滲む傷跡が草子を呪縛する。

(ヒントはここまで)

雅巳はヒントと言う言葉を使った。それならば、雅巳の発言の中に手掛かりとなることがあったのか。
草子は部屋のベッドに寝転んだ。
わからない。
わからないけれど、雅巳が草子をからかう為に、そんなことを告げたとは思えない。
何よりも、ずっとあわなかった鍵と鍵穴が、かちりとあったような感覚が、確かにあったのだ。
鍵が開いて、扉から飛び出そうとしている。
溢れ出して、草子を飲み込もうとしている。
けれど、一度開いた扉を閉ざすことは、もう出来ない。
そして、雅巳はもうここには居ない。
後は最後まで出尽くすしかないのだ。扉の向こうが虚無に満たされるまで。

きれいにはしてあるが、物が少なく殺風景な印象の部屋のベッドの上で草子は考え込む。
覗こうとして弾かれる、そんな歯痒さに、草子は胎児の格好に縮こまった。

むく、と起き上がる。髪の毛がくちゃくちゃになっているのもそのままに、電話を取った。
素早くプッシュホンを押す。間の抜けた機械音が部屋に響く。
コール六回で相手が出た。
「もしもし、お姉ちゃん?あのね、そっちにあたしのアルバム置いてある?」
『急にどうしたの?あるけど。』  姉の美都子は現在三十歳になる、二児の母だ。草子とは年が離れている。
「ん・・・・・・ちょっと・・・。えーとね、今度の土曜日に取りに行くよ、用意しておいてくれる?」
『あんた、泊まってくの?』
「ううん、すぐ帰る」
美都子は、そう、とため息をついた。
母が他界してから、草子は頑なになった。
美都子の助けを求めず、母の葬式を取り仕切り、悲しみゆえか周囲を拒絶した。
草子が大学を入学したと同時に、美都子は県外に嫁いだが、それ以前も特に仲のよい姉妹というわけではなかった。
常に一定の距離を挟んで、母という存在が二人の関係を支えていたのだ。
その母が死んだあとは、疎遠になるばかりだった。
美都子自身、いつからこんなにぎくしゃくとした姉妹になったのかわからなかった。
確かに、美都子は草子を可愛がっていたのだ。
年の離れた妹は、美都子に良くなつき、明るくおてんばな妹の面倒を見ることが、美都子は大好きだったのだ。
そして、明るくおてんばだった妹は、いつしか寡黙で大人しい妹になった。
美都子の脳裏に母の葬儀のときの草子の姿が浮かんだ。
弔問客が帰った後、親子三人で暮らしたつつましいマンションの部屋で、母の写真をぼんやりと見つめていた草子。
涙を流すことも無く、別れの言葉を言うでなく、ただぽつりと座っていた草子に、美都子は言葉をかけることすら出来なかった。
その背中からは侵しがたい悲しみと、拒絶が漂っていた。
美都子が嫁いだあと、母と二人きりで生活していた草子だ。
母の死が草子に与えたショックは想像に難くなかった。
それを美都子が慰めることが出来たら、と心底思った。
けれど、草子はその時に決めてしまったのだ。
誰の助けも受け入れず、たった一人で生きていくことを。
美都子には愛する夫が、子供がいる。
失うことを恐れるように、得ることを拒絶する草子が、憐れだった。
そして、やはり伸ばした手はやんわりと撥ね付けられるのだ。
「俊ちゃんと、沙希ちゃん元気?」
『・・・・・・元気よ。やんちゃで困っちゃう。昔は』 「昔は?」
『・・・何でもないのよ、何でも』
みっちゃん、みっちゃん、と纏わりついてきた草子はもういない。

思い出せ、というからには草子の過去のことなのだろう。
どこから手をつけてよいのかわからず、草子は姉に電話した。
写真でも見れば、何か思い出せるのではないかと、しかし自分でも浅知恵だと暗くなる。
更に、草子は自身の過去をあまり覚えていないのだ。
草子が幼いうちに死んだ父の顔など、写真を見て、あぁそうなのか、と納得する程度だ。
決して物覚えが悪くない方ではないのだが、思い出らしい思い出をほとんどリプレイすることが出来ない。
死んだ母はそんな草子に目を細めてよく言った。
『ごめんね、草ちゃん、お母さんが草ちゃんに苦労ばっかりさせちゃってるからだね』
元からあまり体の強くなかった母は、草子と美都子を育てるためにオーバーワークを重ねた。
朝から晩まで、工場で単純労働を繰り返し、夜は夜で飲み屋のアルバイトをする。
二人の娘に不自由な思いをさせないためだけに働き通した。
草子は、母の負担を減らすために、できるだけ家事をした。
その為に、部活動はせず、友人と遊びに行くこともほとんど無かった。
ただ、学校と家の往復をするだけの、忙しい生活だった。
美都子は、父が死んだ頃から、既にずっと続けていたバスケットボールの選手として将来を嘱望されていたし、母も草子も美都子にはバスケットを続けて欲しいと思っていた。
バスケットを止めて、家を手伝うと言った美都子を説得したのも草子だった。
草子が不満を感じる生活ではなかった。
家族のために役に立てることは嬉しかった。
けれど、それが草子から子供らしい我侭や、伸びやかさを奪っていったことは確かだった。
思い出が無いのではない。
思い出す余裕が無かったのだ。
そして、草子は母が死んで数年が経過した今でも、未だそれを取り戻せていない。
(自分ではそんなに暗い幼少時代だとも思ってないんだけど・・・)
草子は受話器を置きながら苦笑した。
友人の小百合あたりに言わせると『小公女セーラのような幼少期』であるらしい。
元気のよい小百合はいつも草子の背中を痛いくらい叩いて、草子を元気付けるのだ。
乱暴だけど、感動屋さんの彼女はとても大切な友人だった。
小学校から大学までずっと一緒の、付き合いも長い友人だ。
小百合に尋ねてみるのもいいかもしれない。小百合は草子がしでかした失敗談について、草子よりも面白おかしく話す。そして赤面する草子を見て喜ぶ。

次の土曜、それから雅巳が帰国するまでもう一週間も無い。
姉と会うのは憂鬱だった。
決して憎い訳ではない。むしろよい姉である。美都子は面倒見もよく、優しく、母性的な愛情にあふれている。
草子は時折、自分を知っているすべての人から自分を隠してしまいたくなる。
そして、誰も草子のことを知らないところで、存在を希薄にする。
美都子の瞳に映る草子の像を見ることが苦痛なのだ。
(そんな目で私を見ないで)
憐憫と軽蔑の眼差しで私を見ないで。
美都子が草子を軽蔑するはずなど無いのに、草子は苦痛を感じる。それから逃れられない。
(お姉ちゃんとお母さんは似てる)
二人ともよく似通った顔立ちをしていた。
そして同じ眼差しをしていた。
ただ草子だけが違っていたのだ。
その違和感の原因を、草子は知らない。

(こんなやりかたで、本当にいいんだろうか)

暗中模索、とはこのことだ。
雅巳の顔が浮かんだ。
長い前髪の下の、眼鏡のレンズに覆われた雅巳の目は、不思議な色をしていた。
何の感情も押し付けてこない、ただ草子を見るためだけの眼差し。
草子の後ろにあるものでもない、横にあるものでもない。ただ草子だけを、雅巳は見つめていたのだ。
草子を封じ込めるその眼差しが欲しいと、草子は思った。

(何を思い出させたいのですか)

こうして草子を一人きりにして、何をさせたいのだろう。
手首の傷跡は熱く疼いた。

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