蛇の吐息

目覚めると、僕の隣には魔法使いが眠っていた。
眠っていたっていうのは間違いだ。僕と同じように眠っていた名残のようなものを魔法使いに感じたのだ。
正確に言えば眠っていたのは僕で、魔法使いは肩肘をついて半身を起こし、僕が目覚めるのを待っていた。
僕は、目を開けたとき間近に迫る美貌に、しばし陶然とした。
朝の光はやんわりとしか閨の中には入ってこない。
薄闇の中に浮かび上がる魔法使いは、今まで見たこともないようなやさしい笑顔をしていた。
そして、魔法使いは僕が目を覚ましたことを見て取ると、ゆっくりと体を起こし、僕の額に口付けた。
「や、めろよっ・・・!」
とっさに僕は魔法使いを突き飛ばした。
頬が燃えるように熱かった。
魔法使いは、真っ赤になった僕の顔を見て、眉を曇らせた。そのように僕には見えた。けれどすぐ、いつものあの皮肉な笑いを浮かべると、悠然と伸びをした。
その様は、猛獣が午睡から目覚めたような。
「なんで、僕・・・ここって、お前の」
ふつりと言葉が途切れた。
この細い手首は誰のもの?
波打つ銀の髪、この髪は?
魔法使いは喉を鳴らして笑う。
「鏡を見るといい。それから、新しい名前をつけようか。新しい名前で、新しく縛りなおそうか」
最後まで聞かないまま、僕は寝台を飛び降りた。
覗いた鏡は魔法の鏡、水面のようになってせり出てきた水晶の手を払いのけ、僕は鏡に真実を映すように命令する。
するとそこには、見たこともないほど美しい少女が立っていた。
「なっ・・・・・・!」
僕が瞬きをすれば、鏡の中の少女も瞬きを返す。
鏡に手を触れれば、鏡像は同じように手を伸ばす。
少女の後ろに影が映りこむ。
魔法使いは少女の銀色の波打つ髪を救い上げ、ほっそりとした首筋を露にし、そこに唇を近づける。
僕の首筋に吐息。
びくりと震える僕のうなじに、そっと唇が降りてくる。
「・・・っぁ・・・」
ため息は甘く聞こえた。
僕はとっさに自分の唇に指を当て、歯を立てる。
魔法使いの吐息が触れたところから、悪い病気になっていく気がする。
鼓動がうるさくて、僕は魔法使いの腕の中から必死で逃げ出そうとする。
その腕になぜ力が入らないのだろう。

チリン、と鈴が鳴って、客人の来訪を告げた。
魔法使いは興味を失ったようにそっけなく、僕を解放して寝室を出て行った。
僕はそれを見届けてから、ずるずると床に崩れ落ちた。
鏡にもたれしゃがみこみ、絹のようにしなやかな手触りの髪を掻き毟る。
「なんだ、よ・・・っ!これ・・・・・・」
体が重かった。
ほんのりと膨らんだ胸も、華奢な手足も、僕を縛り付ける鎖のように感じられた。

僕は猫の姿になろうとしたが、なれなかった。
猫どころか、どんな獣の姿にもなれなかった。
ひらひらした衣装がイヤで、着替えを探したが、僕が身に着けていたような動きやすい服はどこにもない。
見つかったのは、背中が大きく開いた、純白のドレスだけだった。
胸の下で絞られ、足元へとゆったり広がる。
膨らんだ袖といい、甘ったるい。
「最悪だ、あの野郎」
それでも僕は服を換えた。
ちなみに、このドレスを発見したのは魔法使いの部屋だ。
これ見よがしに、箪笥の中にはこれだけ。
僕の部屋なんて、部屋の存在自体無くなっていた。
悔しさをこめて、魔法使いのベッドの上に夜着を放り投げる。
枕もとの万華鏡から小さな蛇が滑りでて、布地の間に潜り込む。
「よしよし、今夜あいつに噛み付いてやれ」
僕は忍び笑いを漏らすと、書斎へと向かった。
書斎からは、何とも艶っぽい女の声がした。

僕は書斎の鍵穴から来客の姿を見た。
女の唇は赤く塗られていて、その周りを引き連れた縫い目がのたくっている。
女の顔はつぎはぎで、目や鼻はよじれて、おかしなところにへばりついている。
子供が無造作にくっつけたような手足は、背中や腹から飛び出し、指の数はちぐはぐだった。
「あのインチキ魔法使い!高い金を払ったのに、こんな姿にしやがって・・・。ねぇ、あんたにしかもう頼れないのよ。あたしを元の姿に、美しい姿に戻して!」
赤い唇だけがパクパクと女の顔の中で動く。
目も鼻も歪んだ絵画のように見えるから、唇だけが生き物じみていた。
「そいつはたやすいことだけれどもね」
魔法使いは女を焦らし、報酬をつりあげるつもりなのか。
「お前には恋人がいるだろう。恋人の舌を抜き、背中の皮を剥ぎ、鼻をそぎ落として持って来い。できるか?」
女は甲高い声で笑った。
「簡単よ、そんなこと!!たったそれだけで王立劇場に戻れるなら、安いもんだわ!」
ぴくぴくと女の曲がった鼻が動いた。
僕は吐き気を感じて、鍵穴から目を離した。
「・・・・・・魔法使いのところに来る客はろくなもんじゃない・・・」
魔法使いの顔は見えなかった。
けれど、魔法使いは微笑を浮かべていただろう。
僕に見せるときそのままの、冷笑を向けていたのだろう。
畢竟、魔法使いにとっては、僕も、あの客も変わりないのだ。
一時の暇つぶしに過ぎない。
「・・・魔法使いだって・・・ろくなもんじゃない・・・・・・」
毒づいたが、胸の痛みは消えなかった。

テラスに出ると、太陽とは反対の方向に小さな月が出ていた。  赤い月の横には船が浮かんでいた。
船体に比べ、大きすぎる帆を持った船は、ゆっくりと月の前を横切っていく。
僕には何もない。
記憶も、自分の体すら、自分のものではないように、形を変え、僕を悩ませる。
空から星が降る。
昼間に降る星は、砂糖のように甘い。
ひとつ舌に乗せ、噛み砕くと、口の中で溶けた。
ふと、足元にくすぐったく感触があって、僕は目を向ける。
小さな蛇が僕の足首に絡み付いていた。
「なんだ・・・」
僕は蛇を掬い上げる。
「お前の仕事は、魔法使いに噛み付いてやることだぞ。わかってるのか」
冗談めかして蛇を責める。
もたげた頭をゆらりと揺らす。蛇の目は透明な水晶のように輝いていた。
口が開き赤い舌がちろりと見える。
あ、と思った瞬間、蛇は体を伸ばしていた。
そして、僕の首筋に牙が立てられていた。


「どうして、お前はいつも、そうなんだ」
美しい女性が佇んでいる。
菩提樹の下、枝を見上げている。
「私を困らせてばかり。そんなに・・・私が嫌いなのか」
眉を震わせ、女性は俯いた。
その肩を思わず抱きしめたくなるような、儚さが彼女にはあった。
「違うさ。何度も言っただろう」
濃い緑の葉を茂らせる菩提樹の幹の向こう側に、彼はいる。
「興味がないんだよ。何もかも」
「ふざけるな!お前がそうだから、私は・・・私は・・・・・・」
手が伸ばされる。
形の整った長い指、すらりと伸びた腕は、彼女の体を奪い去るように菩提樹の陰へ引きずりこむ。
「お前だけだ」
彼女は悲鳴を上げかけたが、きつく抱きすくめられて、抵抗もできないようだった。
「他の奴はどうでもいい。お前だけがいればいい。俺以外の誰もお前を見なければいい。誰もお前に触れなければいい。世界が壊れてしまえばいい。お前と俺以外の何もかも、滅びてしまえばいい」
男の声は低く艶を帯びていて、その底にざらりと耳を引っかくような響きがある。
笑いを含んだ声は物騒な内容を語り、最後に付け加えた。
「お前を嫌いなことがあるものか」
どん、と女性は男を突き飛ばし、菩提樹の陰から走り出た。
「嘘ばっかり!」
頬に涙が光る。
嗚咽交じりに彼女は叫んだ。
「嘘ばっかり私に吹き込んで、私の心を惑わして、私から全てを奪おうとする!お前は卑怯だ!!」
彼女はそのまま走り去った。
彼は、彼女を追わなかった。
そしてつぶやいた。
「遊びに引きずられたのは、どっちなんだか・・・」
苦笑して、男は去っていく。
短い漆黒の髪、漆黒の瞳、怜悧な美貌。
同じ顔だ、と僕は思った。
なぜ、あの男は魔法使いと同じ顔をしているのだろう。

ぽかりと目を開けると、僕は魔法使いの腕の中にいた。
「・・・・・・遊びだったの?本気だったの?」
僕はそれだけ魔法使いに呟くと再び目を閉じた。
ひどく眠かった。
ゆらゆらと不確かな意識の中で、魔法使いはそっと蛇に口付けし、囁いた。
「蛇よ、誘惑は必要ない。・・・・・・この世界そのものが果実なのだから」
急速に意識は沈んでいく。
魔法使いの顔だけが最後まで浮かんでいた。
その顔は夢の男と交互に現れ、いつしか混ざり合った。
そして僕の意識は完全な闇へと落ちた。

031207

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