「あざっしたー」
深夜のコンビニに店員の声が響く。
真弓は入り口から入ってすぐの陳列棚の前に立ち尽くしていた。
真弓の目の前には、洗面道具や基礎化粧品の小分けされたもの、携帯用のシャンプーリンスや下着といったものが並んでいた。
左手にかけた買い物かごに、何を入れるべきか、真弓は悩んでいるのである。
今年の春、めでたく真弓は大学に入学した。実家を出て、寮生活を始めた真弓の生活環境は一変し、真弓は期待に胸を膨らませていた。
それなりに勉強を頑張っていた自分へのご褒美として、楽しいキャンパスライフが待っていると思っていたのだ。
まずは、眼鏡をコンタクトにしよう。大学デビューに憧れていた真弓は、悲しいかな、自分の服さえまともに自分で選んだことがなかった。まだ慣れない街を、バスを使って移動し、眼鏡屋に入る。そこで、真弓はある人物と出会った。
『いらっしゃいませ』
すらりとした長身の美形男子であった。尾てい骨直撃型の低音ボイスに加え、銀縁眼鏡も麗しく、たとえるなら明けの明星の如く輝かしい人物であった。真弓は、彼を目にした瞬間、強いめまいを感じた。
眼鏡屋の店員は、非常におざなりに真弓の相手をした。彼は、後から経営者の息子で、その日はたまたま店番をしていたと知った。本来、出会う筈もなかったのである。
コンタクトを試着するために、彼が真弓の眼鏡を外した瞬間、彼は押し黙った。
真弓は、眼鏡をはずすと、視界ゼロの強度の近眼である。どうして彼が無言になったのかわからず、小首を傾げた。すると、彼が息を飲んだのが気配で伝わってきた。
数呼吸おいて、彼は真弓の顔に眼鏡を戻した。真弓の視界が戻った時、至近距離に、彼の顔があった。美形が近過ぎて心臓に悪かった。
『お客様、コンタクトはやめましょう』
にっこり、笑った彼に、真弓は寒気を感じ頷いた。
そこからはなし崩しだ。
お客様カードなるものに記入したせいで、相手は真弓の個人情報を掌握していた。
眼鏡屋の麗人は、同じ大学の先輩であった。
相楽千春。それが麗人の名である。
真弓は、無理やり、千春と同じサークルに入らされた。文芸サークルとは名ばかりの、千春のファンクラブだ。千春は何かと真弓を構った。その度に、サークル員から視線で突き刺される。
『何あの子、今時あの眼鏡あり得ないんだけど』
『あんな服どこで売ってるの』
『ださっ』
針のむしろに座らされて一カ月。真弓は進んで雑用を引き受けた。黙々と仕事をしている限りは、視線だけで、実害までは発展しないとの見通しで。
今日も真弓はひとりサークル室に残って、原稿依頼の書式を作っていた。もうすぐで終バスの時間だと思ったところで、大きなミスに気付いた。期限の迫っている仕事である。終バスに乗れないとなると歩いて帰ることになるが、寮に着く頃にはもう門限を過ぎている。真弓はサークル室に泊まり込むつもりで仕事を続けた。結構根性があるのである。
そして、もうすぐ零時になる頃、サークル室を千春が訪れた。
『真弓?こんな夜中まで何してんだよ』
『千春先輩こそどうして…』
たまたま研究で遅くまで残っていた千春は、帰り間際、サークル室に灯りがともっていることに気付いた。そして、また、美しすぎる笑顔で、真弓に言った。
『真弓、物騒だから俺んとこに泊ってけ』
蛇に睨まれた蛙とはこのことかと思った真弓である。
というわけで、真弓は千春の部屋に泊るための『お泊り道具』を買いにコンビニにいるのである。
いやでもほんとに泊るの?何買えばいいの?頭の中を疑問符がぐるぐる回って、何をかごに入れていいやら。
歯磨きはするに違いない。お風呂は入るのか?
入ったら着替えなければならない。いつもはパジャマだが、パジャマは置いてない。ジャージでもいいがジャージはない。オッサンシャツならありか?
どうしてやけにかわいいパンツが置いてあるのか。こんなかわいいパンツはいたことない。これを千春の部屋ではくのか。
ひょっとして、はくためには、脱がなければいけないのか?
ピンポーン、また客が入ってくる。
「っしゃいやせー」
それにしたって、千春の顔がきれいすぎるのがいけない。完全左右対称の顔。眼鏡のフレームはとんかつにキャベツというくらい完ぺきな付け合わせである。この顔の造作ときたら、非の打ちどころのないとはこのことである。テレビで見る芸能人よりもよっぽど整った顔である。小さい頭と広い肩幅。腰の位置が高く、脚はすらりと長い。これで同じ人類だというのだから、世の中不公平である。
「お客さまー?真弓?まだかよ」
「ひゃっ!み、耳元でしゃべるのはやめてくださいっ!って、いっつも言ってるじゃ、ないですか!」
「遅すぎんだよチビ」
店の前で待っていた筈が、待ちくたびれた千春はぴったりと寄り添うように真弓の後ろに立っていた。あまりに思い悩んでいたせいで、全く気付けなかった真弓は飛び上がって驚いた。
千春は口が悪かった。外見に比して、中身はブリザードなのだ。
「チビって言わないで下さい!」
「早くしろっつってんだろ」
「っぐ……」
しかし手が動かないのである。
「ったく焦らしてんじゃねえよ、ほれ、これでいいだろ」
千春がかごにつっこんだのは、ピンクのパンツと歯磨きセットだった。
「か、勝手に入れないで下さいよっ」
真弓はかごから歯磨きセットを出して、千春にぐいぐいと押し付ける。
「うっせーな、おせーのがわりーんだろ。安心しろ、どんくさいお前に免じて、このハブラシで俺が歯磨きしてやっから」
「要りません!」
「ハブラシよりもっといいものをお口に入れてやろうか?」
千春が、真弓のあごに手をかけ、くいと持ち上げた。ずいぶん身長差があるので、真弓が千春を見上げるには、ぽかりと口が開いてしまう。
千春はにやりと笑った。
「初めて会った日から、お前のこのちっさい口に俺の舌を入れて、口中舐めまわして、思う存分吸ってやろうと思ってたんだよ」
「………は、はああああ?」
真弓の顔が真っ赤になる。千春は相変わらずにやにやしている。千春の手を振り払って、真弓は叫んだ。
「千春先輩の変態!詐欺!顔だけ星人!」
「眼鏡を外したら絶世の美女だなんて、お前のほうがよっぽど詐欺だね」
「……はい?」
「いいから」
歯磨きセットに加えて、更に薄い箱が入れられた。
サガミオリジナル。
「朝までたっぷり時間はあるしな」
「サガ…?お菓子?勝手に入れないで下さい!」
「そうだな、入れるときはよく濡らしてからな」
「売り物濡らしたらだめです!」
真弓は知らない。もし、真弓がコンタクトにして、大学生活を始めていたら、こんなにのんきに大学生活を送れなかったことを。ある意味、眼鏡と千春に守られているということも。
ここにきてもまだ真弓は自分の危機に気付いていない。千春にからかわれていると思って、腹を立てて、少しだけ千春の顔に見惚れている。あーもうあたしのバカ、顔だけ星人顔だけ星人、呪文のように心で唱える真弓。
そろそろ気付け真弓、貞操の危機だ。