Noticed! 2

「お義母さま、とてもおいしいですね、この卵焼き」
「あらいやだ、千春さんたら、マサ子と呼んで!」
「ははは、冗談がお上手ですね。お義父さま、醤油をどうぞ」
「千春くんは気が利くなあ!今度釣りでも一緒に」
「そうですね、父のお下がりの船があるので、父も誘いましょうか。僕は船の操縦と、釣った後の調理を担当しましょう」
「おやおや、わしは甘辛く煮付けた魚が好物でねえ…」
「おばあさま、お任せ下さい」
 真弓は物心ついたことからずっと使っている国民的ネコ型ロボット柄のお茶碗を左手に、もぐもぐと口を動かしていた。
 真弓の実家、田名部家の面々が朝食の席に揃っている。
 サザ●さんにそっくりと近所で評判の朗らかな性格の母。
 マス●さんにそっくりと会社で親しまれる部下の信頼も厚い父。
 ふたりともちょっとうっかりしたり、ちょっと抜けていたり、その辺が娘の真弓からすると、恥ずかしいこともあるが、概ね自慢の父母である。
 父方の祖母は、早くに祖父を亡くしている。苦労を重ねた祖母の顔には皺が深く刻まれている。真弓によく伝承遊びを教えてくれた優しい祖母だ。
 そして、全員が同じような眼鏡をかけている。所謂瓶底眼鏡というやつだ。懇意にしている眼鏡屋の主人の見立てである。父の学生時代からの友人だという眼鏡屋の主人は独身を貫いていて、時折田名部家に泊りに来ては、一晩中父と何やらしている。母を筆頭に女衆は早寝なので、ことの詳細はわからないのだが。
 めがね、めがね、めがね、ここにひとつだけ異物が混じっている。
 銀縁眼鏡のきららかな、千春である。
 受け答えははきはきと敬語の使い方といい嫌味もない。礼儀正しい好青年としか表現しようのない。こんな姿を見るのは、初めて会った眼鏡屋以来だ。
 千春に初めて会った時、千春は慇懃だった。慇懃無礼であった。でも普段のようにセクハラまみれのオッサンよりましだった。
「真弓さん、手が止まってるよ」
 千春は優しく真弓にほほ笑んだ。眼鏡の人々がそれを見てほんわかする。うちの娘がえらいイケメン連れてきて、大金星…そういう無言の圧力に、真弓は勢い良く席を立った。
「お父さんとお母さんとついでにおばあちゃんのばかあー!!」
「いやだ、反抗期?」
「真弓、お父さんの加齢臭が…!?」
「わしの入れ歯のにおいかのう。おおい、マサ子さんポリデント」
「はい、ただいま」
 眼鏡の内側で涙をためた真弓はそのまま台所を出る。その背後で、千春のあえかな溜息と、「真弓、僕も行くよ」
という美声が聞こえ、真弓はよく伸びたゴムに弾かれたパチンコ玉のように家を飛び出した。

 真弓はとぼとぼと土手を歩いていた。
 朝の土手は犬の散歩コースで、犬を連れた人とちらほらすれ違うくらいで、まだ街は完全に目覚め切っていない。
 眠い。ほとんど寝てないのだから当たり前だ。
『ほら、しっかり掴まれ』
 なぜかヘルメットが二つ用意されてあったバイクの後ろに、脇に手を入れられてひょいと乗せられる。かぶせられたヘルメットに息苦しさを感じ、目を白黒させていると、ひらりと千春がバイクにまたがった。
 後ろ手に真弓の手を掴み、千春は自分の腹部で真弓の手を重ねさせた。
 冷たい手。
 千春のバイクで千春の部屋まで連れて行かれる10分ほどの間、千春は時折確認するように、真弓の重ねた手の上に自分の手を重ねた。春とは言え、グローブをしていない手は冷たかった。

 部屋に着くとすぐ風呂場に連れて行かれた。好きに使えと言われたバスルームの中は清潔に整えられていた。シャンプーリンスの類はなく、石鹸しかおいていなかったが、その石鹸は例えようもなくいい香りで、真弓は必死に泡だてた。
 そりゃもう必死に。
 泡まみれに泡だらけに…ただひたすら泡を…眼鏡が曇っても泡だけを……。

 真弓はのぼせて気絶した。

 意識を取り戻した時、また至近距離に千春の顔があった。
 少しだけ焦りを乗せた秀麗な美貌が、ほっと緩む。
 眼鏡がないのに表情が分かるくらい、至近距離を越えた至近距離にあった千春の吐息は、せっけんよりも芳しかった。
 それに気付いた瞬間、真弓は泣きだした。のぼせて赤く火照った頬、うるんだ両目から涙が溢れでる。濡れた髪の毛が頬に、額に張り付いていた。
『ふ、ふえぇええ…実家に……実家に帰らせて下さいぃ……』
 千春は口元を押さえてしばらく顔を伏せていた。
 それからタオルを真弓の顔に乗せて、「わかった」と言った。

 バイクで真弓の実家まで数時間。
 グローブ越しの千春の手は、やはり冷たいと思った。
 触れあった背中と頬は、そこから溶けてくっついてしまったようで、身を切るように冷たい風の奔流の中で、真弓と千春だけが確かに温かく感じられた。
 街の入り口まで来て、あまりにも早い訪問は家族がいぶかしがるだろうと、千春は近くの峠に真弓を連れていった。
 高い所から街が一望できる。
 千春は言葉少なで、真弓も涙がまだ喉の奥に残っているようで言葉が出なかった。
 遠く、彼方の空が白み始める。
 素晴らしい朝焼けだった。
 見下ろす斜面には、真弓には名前の知らない雑草が生い茂っている。車が登ってきた山は細くふもとへと続き、濃い緑の中の黒い線が、灰色から白に色を変えていく。
さあっと風が吹き、緑が息を吹き返した。
 闇の中に眠っていた緑達は、今や鮮やかに息を吹き返し、風に揺らされる。それ自体が風を生み出しているように生き生きと、真弓の視界に踊っていた。
「きれいだな」
 千春が言った。
 千春の横顔は、朝焼けを映して、神秘的な美しさを漂わせていた。ゆっくりと真弓を見る、その鼻梁が白く、黒く頬に影を映していく。
 闇から抜け出たような黒髪が、朝日を跳ね返し、銅色に輝く。
 千春は真弓の眼を見てから、少しだけ笑った。今までに見たことのない笑顔だった。
 きっと、真弓はこの笑顔を一生忘れないだろうと思った。
 美しい朝焼けと、そして、この胸を射抜かれたような痛みとともに。

「真弓」
 考えに没頭していたから、千春に追いつかれたことにも気付かなかった。
 真弓は、千春とまともに視線も合わせられず、顔を背ける。
 顔が熱くてたまらなかった。まだのぼせているの?
「そんなかわいい顔してたら、キスしてって、ねだってるみたいだぜ」
 ちがう、そう言いたいのに声が出ない。
 声が出ないまま、千春に肩を引き寄せられ、顎を持ち上げられる。長い指が眼鏡を浚いとって、真弓の視界がぼやける。
 テレビのアンテナが急にあったみたいに、千春の顔が鮮やかになる。
 こんなにもきれいなのに、男でしかない、むせ返る花の香のように圧倒的なのに、獣のように恐ろしい。
 真弓は眼を閉じた。震えるまつ毛を千春の吐息が揺らす。

 そこに、柴犬(12歳)を連れた、近所の留吉さんが通りかかった。
「おんやー、真弓ちゃん、朝からあいびきかい」
 若い者はええのう、うらやましいのう、留吉さんは柴犬(タロ)と去って行った。右手にウンチ袋を提げて。

「いやぁあああああ!!!」
 脱兎のごとく逃げ出した真弓にすんでのところで眼鏡をかけさせた千春は、後ろ姿を見送りながら、「育成ゲーの楽しみがわかってきた気がすんわー…」と呟いていた。

 いい加減、気付いてもいいような、気付かないほうがいいような。

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