キッスは目にして 2

 ヒサカの夢は鮮明だ。現実世界よりもコントラストを強くした総天然色の夢。ヒサカはヒサカ自身の目を通して、また鳥や花の眼を借りて、夢の世界を見ている。
 何度も繰り返して見る夢がある。それは、ヒサカが初めてノブチカと会った日の夢だった。

 母に連れられて、ヒサカはファミリーレストランに行った。なぜかと聞くと、母もおっとり首をかしげて「そういうものらしいわよ?」と逆にヒサカに聞いた。
 吸血鬼の隠れ里から隠れ里へと逃れ暮らしていたヒサカにとって、初めてのファミリーレストランは、明るい店内に音楽がかかり、人々がまどいする、ヒサカが今まで暮らしていた夜ばかりの白黒の世界に比べ、まるで別世界だった。
 母とヒサカは並んで座った。ウェイトレスが注文を聞きに来ても、何を頼んだらよいかわからない二人は、注文をしなかった。水とおしぼりが並べられ、それを飲んでよいものかもわからず、ヒサカはもじもじと膝の上で手を遊ばせていた。

 兄にそういう友達がいるということは薄々感づいていた。
 でも、はっきりとそれを知らされることに、これほど傷つくとは、ヒサカ自身予想していなかった。
 ノブチカと同じ生徒会に所属する生徒、女子体育会会長、それから放送部部長、それぞれが別に、しかし同じタイミングで、その事実をヒサカに伝えてきた。
 もうすぐ体育祭があるからだ。体育祭の後夜祭は、所謂ダンスパーティーである。体育館を飾りつけし、照明を落とし、教師も生徒もみな、恋しい人と踊る。そういうイベントを前にして、誰もが浮足立っている。
 ヒサカは誰とも踊らない。唯一、踊りたい人とは、踊ってはいけない。

「お兄ちゃん、ごめんね」
 ヒサカは呟く。
 ファミリーレストランのテーブルに並んだ、母と義父とヒサカとノブチカ。ノブチカが手際良く注文を取り纏める。四人はぎこちなく家族になり始める。
「お兄ちゃん」
 現実では『お兄ちゃん』とノブチカのことは呼べなくなった。
 ノブチカのまねをして、オムライスをスプーンで口に運ぶ小さなヒサカ。
 場所を公園に変え、ヒサカはブランコに乗る。後ろからノブチカが押す。ヒサカが怖がらないくらいの優しさで。
「お兄ちゃん」
 たったひとりのヒサカの兄。初めて出会ったヒサカの太陽。ヒサカが知らないことをたくさん知っていた。ヒサカに優しくしてくれた。ヒサカを守ってくれた。ヒサカを妹にしてくれた。異端の吸血鬼たちの中でも、更に異端として、腫れもの扱いしかされなかったヒサカを、まるで普通の人間のように、時には叱り、時には甘えさせてくれた。
 一緒に遊んでくれた。それもノブチカだけだった。

 ブランコが揺れる。前に後ろに、繰り返し、ノブチカの幼い手に戻り、また離れる。

 ヒサカは決まって、涙を流しながら目覚めるのだ。

「またいちごミルク?」
 うつむいたヒサカの顔を覗き込んだのは、クラスメイトの樹里である。
 屋上にはちらほらと人影がある。ヒサカが屋上を選んで昼食を取るのは、ノブチカが生徒会の仲間たちと決まって昼休みを屋上で過ごすからである。ヒサカはノブチカ達からは目に触れにくい、給水塔の影を選んでひっそりと弁当を広げていた。
 ジュリはクラスでもリーダー格の、面倒見のいい女子である。孤立しがちなヒサカに気を配り、こうして昼食を共にしてくれる。友達らしい友達のないヒサカにとって、初めて心を許せる友人であった。
「好きだから…」
「会長が?」
「ジュリ…!」
「あー、会長だ。また連れてるよ、肉食系女子の群れ」
 ヒサカはそっと目をやった。ノブチカにまとわりついているのは、それぞれすらりとしたプロポーションが遠目にも目立つ、学園の美女達だ。聞くつもりもないのに、高い声は会話の内容をヒサカに伝えてくる。ねえ、ノブチカ様ぁ、今年はあたしと踊って下さるでしょ?いいえ、あたしとよ、ちょっと、身の程をわきまえなさいよね。
 ヒサカはいちごミルクを膝に置いた。身の程は、十分わきまえているつもりだ。
「あたし、教室戻るね」
 ヒサカは風になびく黒髪を押えながら立ちあがった。
「ちょっと、ヒサカ!」
 ジュリの髪はショートカットで、ふわふわと風に揺れている。ヒサカはそれを泣き出しそうな目で見つめてから、階段を下りて行った。

 屋上に上がる階段は複数あって、特別教室のある棟の階段は、めったに人が通らない。ヒサカは薄暗い階段の踊り場にしゃがみ込んでいた。
 生まれたての雛が、初めて見た動くものを親と思い込むように、ヒサカはノブチカの後をついて回った。ノブチカがそばにいてくれればそれだけで良かった。お兄ちゃんと呼ぶことが許されれば、指定席の券を渡されたようで、お兄ちゃんお兄ちゃんと用もなく呼び重ねた。
 けれど、こうしてノブチカの世界を見せつけられれば、ヒサカにもわかってしまった。ヒサカの世界はノブチカだけでできていても、ノブチカの世界の中でヒサカはちっぽけな存在だと。
 そのちっぽけなヒサカが、ノブチカを虜にしている。
 ヒサカはぐっと涙を堪えた。
 その時、屋上への扉が開いて、ヒサカの頭上から光が差し込んだ。
「ヒサカ、ひとりになるな」
 ヒサカは急いで立ち上がった。
「ご、ごめんなさい」
 ノブチカはヒサカに歩み寄ると、顔をしかめた。そんな表情が、ヒサカの鼓動を速くさせる。
「顔色が悪いな」
 ノブチカはヒサカの肩に手を添え、もとのように座らせた。隣に自分も座る。
「ほら」
 どぎまぎと落ち着かないヒサカの膝に乗せられたのは、いちごミルクだった。表面に少し汗をかいているそれは、まだ十分に冷たかった。
「好きだろう?」

(好きです)

「す、好きだけど、さっき飲んだの。これ、義兄さんのじゃないの?」
「俺はもっと甘くて温かいのを飲む」
 ココアとか?ヒサカは手に取ったいちごミルクを胸に抱く。
 ノブチカは、はぁっと大きくため息をついてから、ヒサカの頬に手を添えて、自分の方を向かせた。
「あんまり泣きそうな顔で見てくるな。言いたいことがあるなら言え」

 公園で転んだヒサカに、ノブチカは自動販売機でいちごミルクを買ってくれた。
 初めて飲んだいちごミルクは甘くて、舌の上でほんのりと温かかった。涙はすぐに引っ込んだ。
 以来、ノブチカは、ヒサカが泣きべそをかく度に、いちごミルクでなだめていた。それこそ毎日のようにいちごミルクを買っていノブチカのお小遣いはすぐに無くなって、しばらくいちごミルクは姿を消した。しかし、それからも事あるごとにいちごミルクはノブチカからヒサカに贈られた。
 今度こそ、堪え切れない涙が溢れた。
「お、お兄ちゃんは、体育祭、誰と踊るの?」
「お前は?」
「あたしなんかとは誰も踊ってくれないし」
「違う、お前は?」
 ノブチカの眼鏡越しの視線の意味に、ヒサカは戦いた。
 今まで数々見てきた、吸血鬼の主と僕の関係。ノブチカはそれをあてこすっているのだろうか。
 震えた手からいちごミルクが滑り落ちる。
「お前は?俺に、どうして欲しい」
 ぺた、と情けない音を立てて、パックが床に落ちた。
「あたしは……お兄ちゃんに……」
 ヒサカが俯く、白い首筋があらわになる。
 ノブチカがそれに目を細めた。 

「誰とも踊らないで」

(あたし以外とは)

 ヒサカははっと体を起こした。自分が何を言ったのか、瞬時に理解できなかった。混乱したままノブチカを振り返る。
 ノブチカはうっそりと笑った。
「夢魔もたまにはいい仕事をする」
 まだ混乱の中にいるヒサカは、ノブチカの言葉を聞き逃し、首を傾げる。
「いいんだ、お前は僕に守られていればいい。お前は主で、僕はしもべだ。さあ」
 ノブチカが立ち上がり、ヒサカに手を伸ばした。
 学生服の下に着た白いシャツの袖が覗く。長い指から、腱の浮いた手の甲、手首の小さな骨の出っ張り。それを、真昼の白い光が影の中に浮かび上がらせる。
 スポットライトのように照らされた踊り場で、ヒサカはノブチカの手を取った。ノブチカはそのまま強い力でヒサカを抱き寄せ、彼女の頭を自分の肩に凭れさせた。
 ヒサカが顔を上げようとするのを、ノブチカはやんわりと抑えつけた。腰に回った手が、ヒサカの体をぴたりとノブチカの体にくっつけてしまうと、ヒサカの心臓は口から飛び出てしまうかと思うほど跳ね回った。
 今度は顔を上げられなくなったヒサカの耳元で、ノブチカが囁いた。
「さあ主、僕と踊りましょう」
 ヒサカは熱に浮かされたように、促されるままステップを踏んだ。
 ノブチカを取り囲む女達のことも、血の掟も、そしてノブチカ自身の思いも、今はすべて忘れて、自分の夢に没頭する。
 逞しい腕に抱かれ、長い脚と追いかけっこするように、ヒサカは黒髪を揺らして踊った。
 それをノブチカは目を細めて眺めていた。
 

 これほどノブチカが人気があるのだから、ヒサカに意地悪をする女子がいてもいいはずなのだが。
 残された屋上で、ノブチカの取り巻きたちは遅い昼食を食べていた。
 生徒会書記が、
「ノブチカ様は、義妹さまを本当に大事になさってるわね」
と言えば、女子体育会会長が、
「だからあたしたちにお命じになるのでしょ。この前も一年の女子が義妹様の教科書を隠そうとしたって」
それに続けて放送部部長が
「告白しようとした男子もいたわよ。排除したけど」
 三人はコロコロと笑っている。それぞれの首筋に、小さな薔薇の形の痣が浮かんでいる。
 ヒサカは、自身に何も特別な力がないから、下僕となったノブチカにも何の特別な力もないと思っている。
「ノブチカ様はあたし達のご主人様だもの。いくらでもノブチカ様の望むように」
 ヒサカは友達の少ないこどもだった。だからこそ、ノブチカへの依存が深まったとも言える。
 ヒサカは美しい子供だった。だから、近寄ろうとするこどもも沢山いた。
 ただ、ノブチカがそれを許さなかっただけだ。

 日が陰り、踊り場に薄暗い闇が満ちる。
 ノブチカとヒサカは足をとめた。ヒサカはやっと、ノブチカの顔を見上げた。
 影になり、表情はよく見えない。いささか肉厚の唇を、艶めかしく舌が這い、ヒサカは頭を傾げ、首筋を露わにした。
 憧れでも、依存でもなく、もし、繋ぎ止めておけるのなら。
 ヒサカの眼に暗く揺らめく光が宿る。
 ノブチカがヒサカの白い喉に顔を埋める。ヒサカは顔をあおのかせ、甘い吐息をこぼした。

シェアする

  プロフィール  PR:無料HP  米沢ドライビングスクール  請求書買取 リスク 千葉  アニメーション 学校  IID  中古ホイール 宮城  タイヤ プリウス 新品  コンサート 専門学校  中古パーツ サイドカバー  不動産 収益  四街道 リフォーム  トリプルエー投資顧問 詐欺  コルト 三菱 中古  シアリス 効果