花吹雪

「最近、駄目なんだよね」
麻実子はそう言ってカクテルのグラスを傾けた。
「また、だんなと喧嘩でもしたの?」
私と麻実子はこのバーで知り合った。
麻実子は私よりも五つ年下で、出会ったばかりの頃は、今結婚している男性と結婚するしないで丁度揉めていた。
バーのカウンター席で偶然隣同士になった私たちは、私が麻実子の相談を受ける形で閉店時間まで語り合い、また会おうと言って別れた。
実際、そう何度も遭遇はしないだろうと思っていたが、これが不思議なもので、私はこの店で麻実子と幾度も酒を飲んでいる。
ひとの縁とは不思議なものだ。
麻実子は答えをはぐらかし、仕事が忙しいからだとか、体調が優れないからだとか、目線を逸らしながら自分の憂鬱について理由づけた。
私はそれ以上、麻実子を問いつめることを諦め、バーテンダーに新しい酒を頼んだ。
馴染みのバーテンダーが独立のため、辞めてしまったこの店は、少し淋しい。
「木の芽時だから」
ふと、麻実子が言った。
「春は憂鬱になるの」
私の脳裏にはある映像が浮かんでいた。
桜の花びらが舞い散る中、置き去りにされた泣いている少女。
桜の向こうに閉ざされて、一面、軽やかなピンク色になった。
見ているだけで、心弾む風景だ。
その向こうに消えた少女が、麻実子と重なった。
「木の芽時、ね」
「うん」
「じゃ、ラーメンでも行こうか」
「おごってくれるの?」
「よく言うよ」
私と麻実子はマスターに会釈して店を出た。
外はしとしとと雨が降っていた。

雨を避け、出来るだけ屋根のあるところを歩いたが、それでも肩や髪が湿っている。
平日の夜中、ラーメン屋はがらがらに空いていた。
丁度、客足の途絶えた時だったのだろう。
私は麻実子の分も勝手に注文し、染みついた油でべとべとするテーブルに肘をついた。
麻実子はハンカチで濡れたところを拭くわけでもなく、酔って充血した目を、じっと店主の手元にやっていた。
手際よくラーメンが作られていく。
「ラーメン二つ、どうぞ」
「ありがと」
酒のせいか、こってりとしたはずのとんこつラーメンの味もぼやけていた。
麻実子は、おいしい、おいしいと何度も言っている。
麻実子は酔うと同じことを繰り返す癖があるから、ひょっとしたらかなり酔っているのかも知れない。
そう言えば足下もいつになくふらついてた。
私は苦手なゆで卵を麻実子のどんぶりに放り込んだ。

「流産したんだよね」
麻実子のどんぶりの中身はほとんど減っていなかった。
「・・・・・・憂鬱の原因はそれか」
結婚の相手は麻実子より十も年上の、バツイチの男性だった。
それを聞いたときは、私もその結婚は待った方がいいのではないかと思った。
けれど麻実子は周囲の懸念の声には耳を傾けず、結婚した。
惚気てみたり、頻繁に電話をする姿を見ていたから、幸せなのだろうと思っていた。
「いつ?」
「結婚して二日目」
「それって夏でしょ?今って冬過ぎて、春だよ」
誰にも言えなかった、と麻実子は言った。
「ずっとバスに乗ったら気持ち悪くて、ひょっとしたらと思って病院に行ったの。あたし達、お金無いから、子供は当分、って思ってたけど、凄く嬉しかった。でも、病院のお医者さんが、赤ちゃんの心臓が止まってますって。今日中に手術しないと、あたしの命にも関わるって言ったの。それで、その日に手術したんだ」
麻実子には父はいない。
母はあまり麻実子の養育には熱心でなかった。
自分の店をやるのに精一杯で、それで悪い男に引っかかったりして、麻実子を置いて出て行ったこともあったそうだ。
だから麻実子はとても家庭に憧れていた。
良い妻、良い母になることに心底憧れていた。
早い結婚も、早く家庭を持ちたかったからだ。
その相手の男性に、問題があると周囲が言っても、結婚を押し切ったのは、麻実子が望んだからだ。
家庭を持ちたいと、自分のような思いはさせず、溢れるほどの愛を子供に注ぎたいと。
「それで、その日にだんなが、もうこんなことにならないように、リングを入れようって」
「・・・・・・え」
リングというのは女性の子宮内に小さな器具を入れて、受精卵の着床を防ぐ避妊方法のことだ。
「それって・・・・・・」
「ね、何なんだろうね。あたしは流産したばっかりなのにね。あたしもう何にも考えられなかったの。それでね」
「リング、入れたんだ」
「そう」
麻実子の夫は酷く理不尽な気がした。
子供が出来たと言うことは、避妊していない、もしくは失敗したと言うことなのだろう。
そして今度は、傷ついてぼろぼろの麻実子に、避妊の責任を押しつけようとしている。
それは麻実子に子供を産むなということなのか。
「お母さんにも、誰にも、親友にも言えなかった。あたしが悪いのかなって。それからちょっとしたことでもすごく落ち込むようになって」
「待って待って、それっておかしいよ。なんで麻実子がおかしいの」
「もう、彼と一緒に、子供を育てるとか、考えられなくなって」
麻実子の目は赤く充血していた。
それは酒のせいばかりではなかった。
どうして麻実子は全て自分のせいにするのか。
それは麻実子に足りないものが沢山あるからだ、と私は思った。
母からの愛は足りてない。
父からの愛はもとより無い。
私は麻実子に女の愛情を与えることは出来るかも知れないが、きっと男の愛情はあげられない。
もっと沢山の人間が麻実子の穴を塞いでくれればいいのに。
桜の下で泣いている子供。
それを花吹雪が隠していく。
麻実子の笑顔の下で、ずっと隠されていた悲しみが、私の中に浸みてくる。
装われた幸せは、滑稽なほど悲しかった。
「あんた、我慢するとこ間違えてる。当たり前だよおかしくなって。痛かったでしょ?辛かったでしょ?」
麻実子は私の方を向いて答えようとして、その顔が歪んだ。
慌てたように顔をうつむけて、どんぶりを覗き込んだ麻実子の目の縁に、透明なものが盛り上がっていた。
「うん、辛かった・・・・・・」
次第に店内は混み出していた。
私はカウンターに千円札を二枚置き、麻実子を連れて店を出た。

雨はまだ止まない。
麻実子は自分を責め続ける。
誰に許されたいと言うのか。

「お金、渡した五千円で足りるね?」
「うん」
私は麻実子をタクシーに乗せた。
そのまま運転手の横顔に目をやった。
人の良さそうな男性は、麻実子の様子を気づかって、
「大丈夫?気を付けて運転するからね」
と言った。
私は後部座席から頭をくぐらせ、運転手に声を掛けた。
「ねぇ、運転手さん。妻が流産した当日にさ、その妻に避妊手術させる夫ってどう思う?」
運転手は首を左右に振って、
「そら酷いね。おじさんにも、三人娘がいてさぁ、みんな嫁にやったけど」
「同じ目に遭ったら、いや?」
「たまんないねぇ」
麻実子は縋るような目で私を見た。
「だってさ。男の人だってこう思うって。女の思いこみじゃ無くってさ。誰だって、そんなこと許せない。あんたは悪くない」
麻実子は頷いた。
その姿が、あまりにも幼く見えて切なかった。
「すいません、少ないですけどこれ。ちょっと話聞いてやって下さい」
運転手に紙幣を握らせ、私は自分でタクシーのドアを閉めた。
発進して、信号待ちで引っかかった車の中で麻実子が口をパクパクと動かしているのが見える。
雨がアスファルトを濡らして、街は灯りも遮られ暗かった。
もう春だというのに、降り続いて、ひとの心を濡らしていく。
雨はいい。
濡れた姿は悲しいと教えてくれるから。
車は闇を縫って、闇の中に消えていく。
私はそれに手を振って、踵を返した。
030324

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