夜薔薇姫

僕は魔法使いの弟子、名前は忘れてしまった。
確かそれは美しい響きの、この世で僕しか持っていない大切な名前だった。
魔法使いは僕の名前を奪って、僕をすっかり支配した。
与えられた代わりの名前には慣れることがない。
今日も今日とて、不満をぶつける僕に、魔法使いは小さな硝子の瓶を投げてよこした。
「何だよ、これ」
魔法使いは長い漆黒の髪を無造作にかき上げた。
その長い髪は光を吸い込んで、闇そのものの色をしている。
秀麗な額に影を落とし、強い光を放つ双眸も心なしかやさしい。
けれど僕は知っている。
それはただの光の錯覚で、魔法使いが僕にやさしい目を向けることなどあり得ないということを。
魔法使いの顔は僅かな狂いもなく、完全な左右対称で、ともすれば人形のようにも見える。
冷たいほど整った顔と、それよりも冷たい心。
ほんのりと赤い唇が開いた。
「それを花の館まで届けてこい。うまくいけば、新しい名前が貰えるかも知れないぞ」
「えっ!?」
僕は手の中の瓶をまじまじと見た。
「花の館って・・・・・・」
「場所は教えてやる。行けば全部わかるだろうよ」
魔法使いはくっと喉を鳴らして笑った。
「信じられないって顔だぞ、お前」
「信じるも信じないも・・・」
魔法使いは僕の腕を掴み、胸に抱き寄せた。
「は、なせ・・・!」
僕の抵抗を封じ込め、魔法使いは僕の後頭部の髪を思い切り引っ張った。
引きつるような痛みが走る。
月の光を結晶した僕の髪。
それも、魔法使いの白い指に絡み取られて、惨めに闇に囚われる。
僕は無防備に魔法使いに喉を晒す、屈辱的な体勢が許せず、激しく身を捩った。
「信じるも、信じないも、お前の自由だが、そろそろ俺も本気で遊びたいんだよ・・・・・・」
魔法使いは僕の目の縁に舌を這わせた。
そのまま魔法使いの舌が僕の眼球をくり抜くのではないかと、僕は思った。
「震えているね」
「震えてなんか・・・」
魔法使いは僕の喉元にかみつくような口づけを落とした。
「さぁ、ルーディ、望むものは持って帰ってこれるかな?」
僕を傷つけようとする魔法使いは、それでも僕の心を奪うように美しい。
そのことが何よりも悔しいのだ。

花の館は王宮の裏手にある森の奥にある。
その森は帰らずの森と言われていて、森をよく知らないものは必ず迷って出られなくなってしまうそうだ。
もちろん僕はそんなことはないけれど。
これでも妖精の僕は、花や草とおしゃべりしながら花の館を目指した。
この森の生き物たちは穏やかで静かだ。
けれど、花の館について尋ねると、誰もが決まって頑なに口を閉ざしてしまう。
なぜだ?
木々が開け、そこに屋敷が現れた。
「これが花の館か・・・・・・」
屋敷は闇の中に白く浮かび上がっていた。  門扉は僕の倍ほどもある直径の真円をして、それを中心にぐるりと白い塀が屋敷を囲っている。
塀は緩やかなカーブを持ち、これまた上空からは円の形をしている。
建物は低く、ここからは屋根飾りくらいしか見えない。
屋根飾りは薔薇の形をしていた。
僕は継ぎ目のない丸い形をした円に手を伸ばした。
軽く押してみたところでびくともしない。
渾身の力を入れても、どうせ同じことだろう。
この扉は魔力を持っている。
ならば魔力で開けるだけだ。
僕の魔力のほとんどは魔法使いに名前と一緒に封印されてしまっているのだけれど、この程度なら造作もない。
「扉よ、扉。僕に道を開けておくれ」
扉が高く澄んだ音を上げて開いた。
「いい子だね」
僕は扉に口づけ、先を急いだ。
僕の後ろで、静かにゆっくりと扉が閉っていった。

僕を出迎えたのは、白い服に白い仮面を付けた下女だった。
「ようこそ、魔法使いの使者」
フードのついたマントは、面以外を全て覆い隠している。
見回せば、同じ装束の下女達が膝をついている。
「月色の髪に菫の瞳の魔物が来ると、魔法使いから伺ってはおりましたが、これは大層愛らしい・・・」
「余計なお世話だ。僕は夜薔薇姫に用がある。とっとと夜薔薇姫を出してくれないか」
「そうお急ぎにならずとも。今紅薔薇様と白薔薇様がおいでますゆえ」
下女はそこまで言うと、他の下女と同じように膝をついた。
鈴の音。
それは対照的な美女だった。
ひとりは燃えるような赤毛に漆黒の瞳をしている。
薄緑に光る肌はキラキラと鱗粉をまき散らし、それが女の歩いた後を彩っている。
ひとりは漆黒の髪に、赤い目をしている。
肌は仄かに血管の色を浮かせるほど青白く、指先は透き通って見えた。
驚いたことに、二人は全く同じ顔をしている。
それでも、二人の放つ気は全く違っていた。
「私は紅薔薇」
赤毛が口を開いた。
「こちらは白薔薇。ようこそ、魔法使いの弟子。夜薔薇姫は奥の宮にあらせられる。くれぐれも失礼の無いよう」
僕は居丈高な紅薔薇に思わず嫌みの一つや二つ返したくなったが、それを白薔薇が阻んだ。
「どうぞ、こちらでお召し替えを」
「は?」
「どうぞ、こちらへ」
白薔薇は僕に有無を言わさず、その華奢な体のどこにそんな力があるのかと思うような勢いで、僕を引っ張っていった。

「多少は見られるようになったな」
「よくお似合いですこと」
僕は不機嫌と書いてある顔で、二人は至極満足そうな顔をしていた。
僕の髪は丹念に梳られ、細い銀鎖に真珠をあしらったものでゆるりと纏められている。
薄物を何枚も重ねた衣装は膝の前が大きくはだけ、足が剥き出しになるようになっている。
その足には、銀糸で編んだサンダルを履かされた。
大きくえぐれた胸元と、それよりも大きく開いた背中といい、女性的過ぎるデザインだ。
僕は女じゃないのに。
「だって、あなたは男でもありませんもの」
白薔薇が僕の心を読んだかのように言った。
「ほら、この乳をご覧なさい。ほんのりと膨らんでいるじゃありませんの」
「いたっ」
白薔薇がぎゅっと僕の胸を掴んだ。
「この唇も、この腰も、あの方に抱かれるために女になろうとしているのですわ」
白薔薇の顔には明らかな嫉妬の色があった。
「すまんな。白薔薇はずっと魔法使いに懸想しているんだ。お前のことが妬ましくてならんのだろう」
「紅薔薇!」
白薔薇は透けた頬に血の色を昇らせる。
「僕は・・・・・・僕は、魔法使いのものじゃない!」
紅薔薇は白薔薇に掴みかかろうとした僕を制止した。
「私は魔法使いとは長いつきあいだが、あいつが何を考えているかはさっぱりわからんな。ただ、あいつの女になるのはまっぴらごめんだ。お前は不運だと思って諦めるんだな」
「だから!」
「けれども、お前を見るに、あいつの趣味は悪くない。これなら王宮の妾妃にも上がれるだろう」
僕はいっそのこと、首に重く巻かれた宝石を引きちぎって投げつけてやろうかとも思ったが、ぐっと我慢した。
夜薔薇姫にとっとと会って帰ればいいのだ。
白薔薇は僕を憎々しげに見つめている。
そんなに欲しいのなら、奪ってしまえばいいのに。
「この子の背中を見てごらん、白薔薇。羽根の生える徴があるよ。きっとこの子は夜薔薇姫の言っていた妖精の中の妖精のひとりなんだろうね」
「ふん・・・」
白薔薇は、魔法使いを殺してでも自分の物にすればいいのだ。
妖精たちはそうして人間との恋を成就させてきた。
妖精と人間の間に恋が生まれなかったわけではない。
ただ、妖精の恋は我が身も燃やし尽くすほど激しく、耐えられる人間はごく僅かだったと聞いたことがある。
妖精と人間の間にこどもが生まれたとか生まれなかったとか、どちらにせよ、幸せになれない半人半妖だろう。
「こちらが奥の宮だ。ここからはお前ひとりで行け」
「夜薔薇姫が会ってくれるといいわね」
白薔薇がたっぷり嫌みをまぶした微笑で僕を送り出した。

暗い廊下は果てしなく続くように思われた。
ドレスの裾が翻り、僕の腿まで露わにする。
汗が額を伝った。
化粧を必死で断って良かった。
されていたら、今頃どろどろだ。
次第に廊下の壁に飾られた薔薇の数が増えていく。
しまいには薔薇の中に壁がところどころ見えているようなことになって、そこに夜薔薇姫の部屋はあった。
薔薇が刺を絡ませて、僕から夜薔薇姫を隠している。
「薔薇よ、花々の王よ、その刺を収めておくれ」
薔薇は密やかに僕の足を這い昇る。
「お前のご主人様に会わせておくれ」
薔薇の刺が、僕の肌をちくりと刺し、ぷっくりと血の玉が浮いた。
それを恐れて薔薇たちが引いていく。
魔力を持った僕の血。
薔薇に埋もれて、夜薔薇姫はそこにいた。

夜薔薇姫は美しい容に苦悶の表情を浮かべている。
「魔法使いのところの小さな魔物ね。早く私にそれをちょうだい」
蔓が伸びてきて、僕の手元からガラス瓶をうばう。
器用に封を開けると、そこから虹が飛び出した。
虹は夜薔薇姫を、薔薇のしとねごと包み込んだ。
「あぁー・・・・・・」
薔薇の花びらが舞い上がった。
そこで僕は見た。
夜薔薇姫のふくれあがった胴、そこから幾本も生えた手、蛇の尾のように長く伸びた下半身、夜薔薇姫は・・・・・・異形だったのだ。

「ありがとう、小さな魔物。私は産み月に入ると、魔法使いの薬が無いとどうにもたまらなくなるのよ」
夜薔薇姫は言った。
夜薔薇姫は女王蜂に似ている。
魔法使いに負けるとも劣らず美しい顔と、化け物の体が、僕にだまし絵を見ているような違和感を与える。
「魔法使いがどうしてあなたをここに寄こしたか、おわかり?」
僕は首を振った。
耳に付けられた真珠の房がちりちりと鳴った。
暗い部屋には薔薇の香りが充満している。
「私は人間と恋をした妖精。あなたの仲間よ」
僕は目を見開いた。
まさか、僕の仲間がこんなところにいるだなんて!
「私の恋の相手は王太子様だった。私は王太子様のこどもを産んだわ。不思議なことに女しか生まれなかった。そして、こども達はみな、特別な力を持っていたの。王族達はこどもを引き渡す代わりに、私と王太子様の恋を認めたわ。私はこの恋に勝ったのよ」
夜薔薇姫は饒舌に語った。
「こども達を苗床に育った薔薇は若返りの秘薬よ。世界中の金持ち達がこぞって買いたがった。この国に富をもたらしたわ」
苗床。
僕は膝が震え出すのを止められなかった。
「夜薔薇姫、あなたは自分のこどもを餌にして薔薇を育てたのか。こどもを殺してまで、思いを遂げたかったのか」
「おや、小さな魔物。妖精とはそういうものだよ」
夜薔薇姫は長い胴体をくねらせた。
その先に、干からびた無花果の実のようなものがぶら下がっている。
「王太子様よ。私は王太子様に真っ先に薔薇の滴を飲ませたからね。もう何千年と私と連れ添ってくれている。ねえ、あなた」
王太子はもはや干からびた死体にしか見えなかった。
醜悪な光景に、吐き気がこみ上げてくる。
夜薔薇姫が放つのは強大な魔力。
何千年と生きた妖精だけが持つ、その力。
「私はお前を気に入ったよ。お前は私と同じ匂いがする。私と同じように、炎をうちに秘めている。だから私がお前に名をやろう。そうすればお前は自由になれる。自由になれば魔法使いを憎むのも、愛すのもお前の望むまま。お前もわかっているだろう。妖精は美しく強いものが好きだ。王太子様はそれは美しい若者だった。お前の魔法使いは強く美しいね。お前が惹かれてもしょうがない。さあ、名前をお取り」
「・・・・・・それは僕の真実の姿じゃない」
「おや、うまい逃げ道を見つけたものだね・・・・・・まあいい」
夜薔薇姫のぱんぱんにふくれあがった胴体が蠕動し始める。
「さあ、お行き。名前が欲しくなったらいつでもおいで。待っているよ」
夜薔薇姫は喘ぐ。
喘ぐその、醜悪な胴体の影から、ぽろぽろと肌色のものがこぼれ落ち、むっと血の匂いが立ちこめた。
夜薔薇姫は腕の一本を僕の方に伸ばした。
血に塗れたその指が、僕の頬に触れた。
「お前が魔法使いを殺したいなら、魔法使いの女になることだ」
夜薔薇姫は笑った。
僕はもう、後を見ず、ただその場から逃げ去るために駆けだした。

どこをどう逃げたのか、僕は館の外に出ていた。
無意識に魔法を使ったのかも知れない。
あの空間の圧迫感が、まだ僕の背中にまとわりついて離れない。
紅薔薇と白薔薇は、夜薔薇姫の娘だ。
どうして気付かなかったのだ。
二人は明らかに妖精の匂いをさせていたのに。
妖精だけが持つ、あの特別な匂いを、僅かなりともさせていたのに。
王宮の科学者が作った人魚と似た、白薔薇の皮膚が脳裏に浮かぶ。
夜薔薇姫は自分の娘達の中で、優秀なものはあのように自分のそばに置いておくのだろう。
それが若返りの薔薇を育てる庭師代わりだとしても、娘としての愛情は無くても、そうしてあの館は成り立っている。
僕は俯いた。
酷く疲れた気分だった。
僕は確かに妖精だ。
しかし、僕に夜薔薇姫のように生きることができるだろうか。
愛のままに、欲望のままに食らい尽くすことが、果たして僕に可能だろうか。
魔法使いを殺すことだって、殺して自由になることだって、僕にできるだろうか。
僕は怯えている。
僕は、自分の中の魔性に怯えているのだ。
夜薔薇姫のようになることを恐れている。
自分の娘を苗床にして咲いた薔薇に横たわる、あの異形になることを、恐れているのだ。

月が僕を照らす。
僕を浄化する。
その光が遮られ、僕の足下に影が落ちた。
「ルーディ、お帰り」
僕ははっと頭を起こした。
「ユーノジア・・・・・・」
魔法使いはあの喉を鳴らす独特の笑い方をした。
「艶姿だな」
走ったせいで乱れたドレスは僕の体を申し訳程度に覆っている。
僕は両手で自分の体を庇った。
頬が燃えるように熱い。
「夜薔薇姫は何と言っていたのかな?望むものは手に入ったか?」
魔法使いの唇には、刃のような三日月の微笑。
魔法使いは僕に自分を殺させたいのか。
殺すために、魔法使いの女へと身を落とす僕が見たいのか。
それが一番の復讐だと思っているのか。
僕の心の中まで、見通せると言うのか。
「何も。何も言ってなかったよ。僕の望むものも何も、ここには無かった」
魔法使いは僕を抱き寄せた。
僕はされるままに身を任せる。
「つまらないな」
「僕は・・・・・・僕は、あんたの玩具じゃない」
「知ってるさ。だから何より面白い」
魔法使いがその整いすぎた顔を傾けた。
僕はその口づけを受け入れる。
突き放す力は残っていなかった。

僕は魔法使いの弟子。どこにもいけない妖精。
自分の心すら自由にならない、囚われの魔物。

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