蜘蛛の糸、もしくはその巣

 ――夫は弟が垂らした蜘蛛の糸だった。

 うだるように暑い夏の夕で、蝉がけたたましく鳴いていた。
 私には、二つ下の二七歳になる弟がいる。学生時代に両親は亡くなり、実家はすでにない。盆休み、この弟の来訪を、夫は大げさに喜んだ。
 すぐに酒を飲み始めた夫と、上着も脱いでいない弟を家に残し、挨拶もそこそこ、つまみを買いに出た。しかし、店に着くなんとしたところで財布を忘れたことに気づき、私は家に取って返した。
 玄関を開けるとすぐ、夫の上機嫌の笑い声が聞こえてきた。夫は酒を飲むとすぐに声が大きくなる。
「つまらない女だよ、いくらお前の姉ちゃんだって、なんであんな女と結婚しちまったんだろうなぁ」
 足を乗せた上がり框が、急に氷の塊にでも変わったように感じられた。
「セックスの時もマグロだぜ、マグロ。多少は顔がよくってもさぁ、あれじゃ萎えちまうよ。フェラなんて気持ち悪いって顔でさぁ」
 弟の声はしなかったが、弟がかつてよく見せた冷笑が、脳裏に浮かんだ。

 私は再び家を出て、車を走らせ、普段行くのとは別の、スーパーに飛び込んだ。
 カラフルなパッケージを手当たり次第にレジカゴに入れていく。レジの長い列に並んで、やっと自分の番になったところで、財布を持っていないことに気づいた。折角取りに行ったのに、忘れてばかりだ。
 化粧っ気のない店員の女は、髪をひとつに後ろで纏め、けば立って形の崩れたカットソーに、安物のジーンズを履いて、その上から店のロゴの入ったエプロンを着けていた。
 その店員の、ささくれの目立つ鬱血した指を見て、私は強い目眩に襲われた。
 夫とは弟の紹介で知り合った。高学歴で、有名企業に勤めていて、それなりの容貌をしていた。私は一も二もなく結婚を決めた。
 結婚して一年も経っていないのに、結婚生活は破綻していた。
 それでも私は結婚生活を継続したかった。どうにかして、家を出て暮らしていきたかった。普通の暮らし、当たり前の夫婦、そのなれの果て。あの店員。

 ふらふらとスーパーを出たところで、私の電話が鳴った。
『姉さん、もう満足したでしょう』
 スマートフォンが滑り落ち、画面にひびが入る。
「……あんたが、全部悪いのよ……!」
 言った私の肩を、誰かが掴んで振り向かせる。そこに立っていたのは私の弟だった。
 私よりも背が高く、私よりも力強く、魅力的で、誰をも従わせた弟。
 姉である私を、支配した弟。
 弟は二台のスマートフォンを、重ねて自分の尻ポケットにねじ入れた。
「……マグロだって、姉さん。はは、うっそだぁ……フェラチオだって、大好きなのにね」
 私の振り上げた手をやすやすとねじ上げて、弟は、自分が運転してきた車に私を放り込んだ。私をベッドに抑えつけるときのように、手慣れた様子で。
「普通の幸せごっこなんて、もう終わりにしようよ、姉さん」
 涙が溢れた。夫は、弟が垂らした、蜘蛛の糸だった。あの夫と、幸せになれれば、私の勝ちだった。永遠に、弟から逃げられるはずだったのに。
 まだ、夫とはやり直せるかも知れない。あの店員だって、本当はとても幸せなのかも知れない。これから、もっと私が努力すれば。
「約束通り、迎えに来たよ」
 弟の冷笑は記憶と寸分違わなかった。それだけで、身体の芯がぼっと熱を持つ。夫にはかつて感じたことのない熱が、弟によって容易く灯る。
 弟が投げて寄越したスマートフォンの画面には、蜘蛛の巣のように罅がいっていた。暗い車内で、光を反射する。鏡のように。
 蜘蛛の糸は、脆く千切れるものだと、最初から私達は知っていたのだ。
「……ひどい」
「姉さんがね」
 小さな画面の中、蜘蛛の巣に囚われた女は、安らいだ微笑を浮かべているように見えた。

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