匂い

 ――私達は飼い主と犬であって、男と女では、ない。

 

 私は、生理が来たことを、誰にも言わなかった。血のついた自分の下着をビニール袋に入れて、学校で保健の授業で配られていたナプキンを、保健体育の初老にさしかかった女教師が教えてくれたとおりに、自分の足の間にあてがった。
 必要な分の生理用品は、小遣いから買わなければならなかった。幸いなことに、小遣いは、一月に五千円ほど与えられていた。
 私は恥ずかしさを堪えて、ドラッグストアでナプキンを買わなければならなかった。何ておぞましく、汚らわしいのだろう。たらたらと血を流す足の間、ナプキンは蒸れ、不快感が募った。
 一番、私が辛かったのは、家のトイレに、汚物入れが無かったことだ。私は、自分の血をたっぷりと吸い取った、汚物を――ナプキンが汚物になったのは、汚物を吸い込んだせいで、汚物は私の身体の奥から、止めようとしても流れ出てくる。ならば、真に汚れているのは――汚物は――。
 スクールバックに、汚物を詰めて何重にもしたビニール袋を入れて、私は捨て場所を探した。学校に捨てられる時もあったし、公園に捨てたときもあった。
 夜中に、通学路の脇のゴミ捨て場にこっそり捨てに行った時もある。翌朝、私は道すがら、自分の汚物が、カラスによってまき散らされたのを、見なければならなかった。
 冬が来る前に、私は、食べた食事を吐き戻すようになった。初潮を迎えて、一ヶ月頃に、それはピークを迎えた。とにかく、食べるのが気持ち悪い。食べたとしても、胸がむかついて、吐き出したくてたまらない。
 父母の目を盗んでトイレに入り、指を喉に突っ込んで食べたものを吐き出す。喉を胃酸が焼いて、眼球が内側から押し出されるように痛んだ。けれど私は、吐き出すものが無くなるまで、吐き続けた。給食は食べないわけにはいかなかったし、吐き出す場所もない。だから、全く栄養を取らなかったというわけではない。それでも、体重はゴトンと落ち、腰骨は皮膚を突き破ろうとでもするように、くっきりと浮き出た。
 抵抗力のなくなった身体は、はやり初めのインフルエンザを招き入れた。受験生の冬、クラスメイトには、仮病で休む者も少なくなかった。私の休みも、特に注目されぬまま、冬休みが始まった。

 私と克彦に、穏やかな時間があったとするならば、この冬の間なのだろう。
 蜜月。ベッドで衰弱する私のそば、だらりと伸ばした手の横に、克彦は顎を乗せた。私はぼんやりと、死にかける主人に寄り添う犬のようだと思った。
 克彦は、私の頬を舐める。首筋の臭いを嗅ぎ、耳朶を囓った。目をつぶって、甘えてくる克彦の頭を撫でていると、私は真っ暗で波一つない夜の海に、まるごと浚われ、沈んでいくような心地になった。
 克彦は、しきりに私に何かを食べさせようとしたが、私の身体はもう、食べることを忘れていた。無理に食べても、勝手に吐いてしまうのだ。
 両親は私の様子を見て、眉を顰めた。母が、「病院に連れて行った方が」と言った時、父は「うちの恥を晒すのか」と答えた。

 私はうとうとと眠って過ごすことが多くなった。その日も、私はうつらうつらしていたが、爽やかに甘酸っぱい香を嗅いで、目を覚ました。
「姉さん」
 目だけを声がした方に動かすと、克彦がリンゴを剥いていた。 真っ赤な皮が克彦の長くきれいな指の間から滑り落ちていく。
「姉さん、リンゴ、食べよう」
 私は頷いた。頷いたつもりだったが、ちっとも首は動かず、代わりに、落ち窪んだ目から、涙が溢れ出た。
 克彦は、リンゴを自分で囓った。黄みがかった白い果肉は、克彦の唇の間に消えていく。
 しゃくしゃくとリンゴの砕ける音が、とてもきれいな音だと思ったのを、よく覚えている。
 克彦は、ベッドの私の上に、覆い被さり、そっと頬を傾けた。
 私は十五で、克彦は十三だった。
 触れあった唇の間から、すり潰されたリンゴの甘い汁が入ってきた。蜜の味だった。

 克彦は、リンゴを口の中でかみ砕いて、まず、汁だけを私に飲ませた。恐ろしいことに、私は克彦の行為を受け入れていた。
 それはまるで、獣の親が、子にすり潰した餌を与えるように、親鳥が雛の口に嘴を入れ餌を食べさせるように、自然な行為だと思えた。
 克彦は、私にまるまる一個分のリンゴの汁を飲ませると、両親と夕食を取るために、部屋を出て行った。
 十二月二十四日。クリスマスイブだった。

 次の日、克彦は砕いたリンゴを、私に口移しで食べさせた。私はリンゴを吐かなかった。克彦の口の中で温められ、柔らかく小さくなったリンゴは、私の細胞のひとつひとつに染みこんだ。
 いつだって、私の食事は用意されていた。私の分もご飯は炊かれていたし、味噌汁も、おかずもあった。でも、私のために用意された食事はなかった。
 克彦は残されていた私の分の食事を、私の部屋に持ち込んだ。それらの食事は、全て、一度、克彦の口の中に入る。克彦の口内で、食事は食べやすく咀嚼され、唾液を混ぜた飲み込みやすいペーストにされてから、口移しで私に与えられた。
「元気になって。姉さん」
 克彦はそう何度も囁いた。謝ろうとする私を押し留めて、私の手を、自分の頭の上に乗せた。

 現金なことに、私の身体はみるみる回復した。私と克彦の関係は、傲慢な飼い主と虐待される犬の関係から、犬を思いやる飼い主と忠実な犬の関係にシフトしていた。
 もはや、私が命令する必要も無い。克彦は、私が望んだことをする。いい子だね、えらいね、と克彦にご褒美を与える。克彦は、私の胸の膨らみに顔を埋め、すうすうと匂いを嗅いだ。両脚の間に鼻面を突っ込んで、「姉さんの匂いは特別甘い」と言った。克彦によると、私の体臭は、「猫にマタタビ」みたいなものらしい。克彦は、私の匂いを嗅いで、うっとりと目を細める。克彦が嗅ぎたがるのは、耳の後ろ、首筋、鎖骨の真ん中、脇の下、足、それから、両脚の付け根。
 嬉しそうな克彦を見るのは、私の楽しみでもあった。かわいい犬が嬉しそうにしているのを見て、喜ばない飼い主はいない。
 ところが、困ったこともあった。克彦が、時々、私の足に、自分の腰をすりつけてくるようになったのだ。本物の犬さながら。私は、犬の生態について調べた。そして、これが、マウンティングと呼ばれる行動で、興奮を発散するために行うということ、飼い主が大好きでたまらなくて、興奮してしまうということを知った。
 私が克彦にそれを教えると、克彦は「本当に、俺は姉さんが大好きだから」と微笑んで頷いた。
「でも、おちんちんが、固くなって痛いんだよ。姉さんが大好きで、こうなっちゃうんでしょ。どうしたらいいの?」
 克彦は困った顔で私《飼い主》を見上げ、
「姉さん、痛い、助けて」
と訴えてくる。
「どうして欲しいの?」
と尋ねる私に、克彦は、私の手を取って、自分の股間に導いた。
「……射精したいな、姉さんの手で」
「えっ……」
 私は触れた克彦の股間の固さに言葉を失った。
 克彦の目には一点の曇りも無く、私《飼い主》に懇願をしている。私は、邪な疑念を脇に押しやった。――私達は飼い主と犬であって、姉と弟でも、況んや大人では――男と女では、ない。
 克彦は、円らな目を涙で潤ませている。痛いのだろう。苦しいのだろう。かつて、私は克彦を、殴り、蹴り、傷つけた。克彦の顔を、見ておられず、私は、克彦に促されるままに、克彦の欲望を慰めた。克彦の欲望は、まだ大人の形をしていなかった。陰嚢が重たくなり、陰茎は長さを増したとしても、まだ小さな男の子の形を残していた。少女だった私の手に、充分収まった克彦の欲望は、やわらかい宝石でできた杖みたいだった。
 最初こそは、手が震えて何ともならなかったが、慣れれば楽しかった。克彦の身体は美しかった。若木のような肉体。ズボンの前を寛げてやると、すぐに弾け出てくる。何の滑りも無いと痛むとか、裏の筋の立ったあたりが気持ちいいとか、克彦が言うのに合わせて、私の手管は慣熟していった。
 水を掬うようにした手のひらに、私は唾液を落とす。酸っぱいものを食べたことを想像して、手のひらを唾液で濡らし、べとべとになった手で、克彦の欲望を扱いた。溢れ出た先走りで、更に動きは良くなる。
「あっ、姉さん……、姉さん……気持ちいい……」
「いい子ね、克彦」
「姉さん、もっと……もっとして……」
 克彦は細い腰を震わせる。私の首筋に顔を埋めてぺちゃぺちゃ音を立てて舐める。
 これをすると、克彦は一層、私に従順な犬になる。だから私は、喜んで克彦の求めに応じてやった。
 私は、忠実な飼い犬に、ご褒美をあげているつもりで、克彦の精が手を濡らす度、誇らしげな思いに胸を膨らませた。
「ほら、姉さんの匂い、甘くなった」
 すっきりした克彦は、私の太股に頭をのせる。私はおかしな感覚に尻をもじつかせねばならなかった。おかしな、足の間の疼きに。
 私の目を、克彦がガラス玉にすり替えたに違いない。私達は私達に溺れた。
 とうとう、あっさりと克彦が射精という言葉を使ったことの矛盾にも、気づかないままだった。

 私はその春、高校に進学した。
 私は中学時代、音楽クラブに所属していた。別に音楽が好きなわけではない。ブラスバンド部は他にあって、このクラブは、集まって音楽を聴くというだけの、ろくに活動しない部だった。活動実績として残すためだけに、朝練が月に何度かあるのみで、放課後はほぼ活動がない。勉強時間を確保したかった私には、ぴったりの部活だった。それに、この音楽クラブは、かくある部活動の中で、唯一部費が必要なかった。
 高校では帰宅部、と思っていたが、オリエンテーションの一環の部活動見学には参加しなければいけなかった。仕方なく、私は、新入生の列に混じって、校内を歩き回った。音楽室の前にさしかかった時、放送室から出てきた男子高生が、私の肩にぶつかった。
「ごめん、大丈夫!?」
 八重歯の笑顔に、私は見とれた。その上級生は、放送部に所属していて、土屋と言った。

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