――不愉快で仕方ない。克彦の――犬のくせに、あんたは。

 私の両親は、とにかく、女は男に従っていればいいという考えだった。
 自分の織愛《おりえ》という名前が空々しくなるくらい、両親に愛されたという記憶は薄い。とにかく、彼らは私に無関心だった。特に、弟である克彦《かつひこ》が生まれてから。
 弟が生まれるまでは、私もそれなりに可愛がられたようだ。アルバムをめくれば、二歳までの私の写真を見ることができる。
 それ以降は、弟の写真ばかりが家族のアルバムを占める。
 玩具でも本でも、与えられるのはまず弟だった。私が貰うのは、弟が選ばなかったものや、弟に与えるにはできの悪い粗悪品ばかりだった。
 習い事も、弟は当然のように幾つもやっていた。武道、書道、そろばん、一通り。私は何も習わせて貰えなかったが。
 弟には、与えられる教育が、私には与えられない。
 私は弟を横目で見ながら――恨めしそうに指をしゃぶりながら、それでも、両親に構って貰うための努力をした。勉強もしたし、運動だって。

 ひとつ、幼い頃の記憶がある。
 あれも丁度夏の日で、私は五歳くらいであろうか。まだ小学生にはなってなかったはずである。そうすると、三歳くらいになるのだが、公園に弟と二人でいる。
 私は、公園の鉄棒で逆上がりの練習をしている。何度やってもうまくいかない。
 弟は滑り台に座って、観客役をやっていた。夕日が汗の入った目にぼんやりと滲んだのをよく覚えている。
 手のひらの豆は潰れて、結局逆上がりはできないまま、弟を連れて家に帰った。そこで、私は母親に頬をぶたれた。
 母は、「どうしてこんな遅くまで克彦を連れ回したの!?」と私を怒鳴りつけた。私は、じくじくと痛む手を、砂まみれの母が誰かから貰ってきたというお下がりのスカートになすりつけた。
 その時の、ざらついた繊維と剥き出しになった肉の擦れた感覚は、いつも、弟との接触のたびに、うっすらと頭を過ぎる。

 そんなわけで、私は随分と冷めた子供に育った。そして、両親への鬱憤をぶつけるように、克彦を虐め始めた。
 克彦は、これがおかしなことに、私に非常になついていた。どんなに私がつっけんどんな態度を取っていても、私について回った。自分が両親に構われているのを、当てこすられているようで、ますます私はこの弟を虐めた。
 二歳違いの克彦が、小学校に上がる時に、買って貰ったランドセルにはこっそり傷をつけてやった。筆箱にも。それを始め、私は克彦の持ち物をよく傷つけたり、壊したりした。克彦は、困ったように私をじっと見るだけで、両親に告げ口はしない。
 克彦がうんと怒られれば、少しは胸がすいたのに、両親は克彦に甘く、あっさり新しいものを買い与えるだけ。私はすぐに、この効果のない行為に飽きた。
 それで、「いぬごっこ」という遊びを始めた。「いぬごっこ」というのは、私と克彦にだけ通じる遊びだ。
 ルールは簡単、私は飼い主に、克彦は犬になるのだ。私は克彦を犬にして、いろんなことをさせた。
 お座りや待てをさせたり、床に落とした食べ物を手を使わずに食べさせたり、首輪代わりにはちまきを巻き付けて、引っ張って四つん這いで歩かせてみたり。私はこれで克彦を充分に卑しめているつもりになっていた。子供たちがよくするごっこ遊びの、この時はまだ延長に過ぎなかった。
 この「いぬごっこ」は、私が小学校の高学年、克彦が中学年になっても続いていた。私は両親の愛に飢えていたせいか、逆に身体は早熟に育っていった。女子同士で胸の膨らみを気にする頃、思春期の扉が私達女子の視野に入りかけていた。
 教室で何かの話のついでに、『織愛ちゃんの弟って、かわいいね』と言った女子の名前は覚えていない。所謂ませた女の子のひとりだったその子は、私に甘ったるい砂糖菓子みたいな調子で言った。
 私は、ますます「いぬごっこ」に、弟を服従させる秘密の遊びに、のめり込んでいった。
 小学校では優等生、スポーツ万能で勉強も出来て、上級生にかわいいとからかわれて顔を赤らめる弟。家では両親に可愛がられ、家庭教師の先生をつけられ、習い事に車で連れて行かれる克彦。
 私は克彦を犬にする。「おすわり」と言えば克彦は犬のように座る。「ちんちん」と言えば、両手を上げて、はっはっと舌を突き出す。
 エスカレートしている自覚は無かったわけじゃない。それが、小学校六年生の、あの忌々しい修学旅行の夜。
 布団を被って聞いた噂話。

『織愛ちゃんの弟、クラスの子とつきあってるんだってね』

 修学旅行から帰ったその日、私は克彦を連れて自分の部屋に籠もった。両親はいなかった。なぜかは覚えていない。
 六月の、じめじめと雨が降る日で、窓の外は灰色に塗り込められていた。
 私は、克彦に「犬になれ」と命令した。弟は、克彦は、私の命令に服従した。そこまではいつも通りだった。
「あんた、彼女いるの?」
 私がそう言うと、克彦の顔が変わった。戸惑った様子で、視線をさまよわせた。それが、私を逆上させた。
 克彦は犬から――男の子の顔になった。
 私は克彦を打擲した。今まで、証拠が残ることはするまいと固く己を律していたのに、全く箍が外れて、自分の手がひりひり痛み赤く腫れ上がるまで、克彦を叩いた。
 人を殴るというのは、とても体力がいる仕事で、私の首と言わず、腕と言わず、すぐに汗の膜が張った。不愉快で仕方なかった。
 不愉快で仕方ない。克彦の――犬のくせに、あんたは。
「ばかにしてんの!?」
 気がつくと、私は肩で息をしていた。克彦は床に蹲っていて、私は顎を伝った汗を手の甲で拭った。
 なぜ、あの時あんなことを言ってしまったのだろう。
「……舐めなさいよ」
 克彦がゆっくりと頭を上げる。芸能事務所からスカウトが来るとか、雑誌のモデルになるとか、女子達がわあわあ騒いでいる、弟の顔が上がって、大きな目が私を見る。
 つぶらで、焦げ茶色で、白目の赤く充血した目が。
「あんた、犬なんだから」
 克彦の視線と私の視線がかち合う。
 犬になれ、犬になれ、私は呪文を視線に込める。暫しの対峙のあと、先に目を逸らしたのは克彦だった。
 私は自分の胸を押さえた。幼い胸が、膨らみかけの胸がつきんと痛んだ。痛みのせいか、乳首は、固く、勃起していた。
 弟の視線が、下から舐めるようにゆっくりと上がってくる。汗の染みた私の服の上を這う。腹から胸を、つんと突き出した乳首のあたりを。それから、首を、顎を。
 弟はのろのろと四つん這いになって、私の足下までくると、おすわりをした。
「……そうよ、あんたはずっとあたしの犬でいればいいのよ」
 私は弟の前に、膝を突いた。丁度、彼の顔の前あたりに、私の胸が来るように。
 弟は、すんと鼻を鳴らしてから、ぐっと首を伸ばして、私の顎を伝う汗を舐めた。
 熱く濡れた舌で、克彦は、私の顎から首筋をぺろぺろと舐める。 私は一瞬だけくすぐったさに首を竦めた。克彦も一瞬だけ、息を止めた。
 私は、克彦を完全に屈服させたつもりでいい気になったが、すぐにその気分は去った。克彦が舐める度に、ぞわぞわと腰のあたりが薄ら寒くなる。
 けれど、やめさせるのも癪で、私はじっと克彦の舌を受け入れ続けた。

 その日から、「いぬごっこ」に「舐める」が加わった。
 克彦は、ますます私に従順になったように見えた。
「織愛お姉さん」
 私は、克彦にそうしゃちほこばって呼ばれるのが好きだった。克彦もよく心得ていて、学校で、特にクラスメイトの前では、姉への敬愛をたっぷりと込めて、私を「織愛お姉さん」と呼んだ。両親の前では、彼らの愛しい長男さまが、姉を持ち上げても、私の不興を買うだけだと、よぅくご主人様の折檻で教え込まれた犬は、「姉さん」と私を呼んだ。家に限っては、私達は両親の目には、お互いにあまり関心の無いきょうだいに映ったに違いない。両親は、私が問題を起こさない限り、克彦が彼らの理想の息子でいる限り、私達に干渉することが無かった。
 扉を閉めて、私がご主人様に、克彦が犬になった時、私達きょうだいの時間が流れ始める。
 この時間がどんどん濃密になることを、私は予測していなかった。

 やがて、私は中学生になり、克彦もめきめきと身長が伸び始めた。二人とも、第二次成長期を迎えたのだ。「いぬごっこ」は続いていた。それは唐突に私の命令で始まる。晩ご飯の後に、風呂のあとに、寝る前に、もしくは、私が部活の朝練に行く前に。
「犬になりなさい」
 克彦が犬になる。学校の人気者である弟が、だらしなく舌を口から出して、ぺろぺろ私の手を舐める。思い返せば、私は克彦を上から見ることばかりしていたので、彼の表情はよく覚えていない。
 もうすぐ克彦が小学校を卒業するとなって、克彦が私に褒美をねだった。犬のくせに生意気だと私が言うと、
「俺は姉さんの犬だから、姉さんの……匂いを嗅がせて欲しい。犬みたいで、ちょうどいいでしょう?」
と言った。それから、ベッドに腰掛けた私の足をそっと持ち上げて、頬をすり寄せた。

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