赦し

 ――たった十四才だった、克彦の心のうちを、私は知らなかった。

 

 私は放送部に入部した。
 土屋は、私を含め数人の新入生を放送室に引っ張り込むと、天性の話術で私達を大いに沸かせた。そして、放送部のいいところを並べ立てて、本来は、テニス部だとかバレー部だとかに提出されるはずだった入部届を、私の分も含めまんまとせしめることに成功した。
 二年生ながら、土屋は放送部の部長を務めていた。よくよく聞けば、入部者も途絶えて廃部寸前になった放送部を、一年で入部してきた土屋が建て直したのだった。土屋は活発で、裏表が無く、誰をも平等に扱った。
 中学と同じように、教室の隅で時間を潰すはずだった高校生活は、この入部によって、がらりと変わった。放送部は新一年生もあわせて三十人ほど。三年生は五人しかいなかったが、ひととおりの学年の男女が理系文系問わず一緒になって活動していく中で、高校生活の展望や、様々な事柄――購買のパンの売り切れは何時頃だとか、どこの裏道を通っていくと一番駅に近いかなど――を知ることが出来た。
 徒歩で学校に通う生活から、電車を利用することになったのも、大きな転機になった。電車に揺られて、窓の外を眺めていると、カタンカタンという振動が、私の心を落ち着けていくのがわかった。満員電車になるほどの路線では無かったから、あたりを見回す余裕もあった。
 老人に席を譲るサラリーマン、並んで座る年のいった夫婦、子供を膝に乗せる母親、するすると上客をすり抜けながら挨拶をして回る車掌。そんな風景が、私の視野を少しずつ広げていった。
 放送部に同じく入部した、同じクラスのカナちゃんと、私は仲良くなった。カナちゃんは、私のことを織愛と呼んだ。私は初めて友達に名前を呼び捨てにされた。級友達が、それぞれあだ名をつけ合って呼び合う輪に、私は入ることは出来なかったが、一足飛びに女友達とのつきあいを始めたのだ。カナちゃんのおうちは母子家庭だった。カナちゃんには、人生を達観したところがあった。目が細くて頬骨が高い、香港の映画に出てくる悪役のマダムみたいな顔のカナちゃんと私は、お互いの家族のことを話すようにもなった。
「織愛は真面目すぎるんだよ。親なんてどうせ死んじゃうんだからさ。弟とは仲良くした方がいいけど、織愛だって、結婚したらそれぞれの生活だよ」
 カナちゃんの父親には、新しい家族との間に赤ん坊が生まれたばかりだった。
「それよりさ、土屋先輩、よく織愛のこと見てるけど、ひょっとしたら織愛のことが好きなんじゃないの?」
 土屋の熱の籠もった視線を、私も感じていない訳では無かった。あの頃の私達の恋愛は、タイミングや一方的な憧れで成り立っていた。私は、土屋が自分の生活を明るくしたように感じていたし、土屋からすれば、私は気位の高そうな猫がなついてくるような優越感を持てる相手だったのだろう。
「弟君もそんな家だとしんどそうだけど、織愛がいるからましなのかな」
と、カナちゃんは言った。

 中学校二年生になった克彦は、どんどん男らしくなっていった。けれど、克彦は私の犬であり続けた。朝な夕な、私の匂いを嗅ぎ、私の頬を舐めた。高校生活に馴染むほど、放送部の活動が楽しくなるほど、私は克彦の忠誠を重たく感じるようになっていた。
 克彦は私を束縛しようとはしない。帰り道、急な雨に降られた時など、駅に下りて、すぐのところで、克彦が待っていることがあった。自身も、塾や部活――克彦はテニス部だった――で忙しい中、ただ私のために時間を使うことを、厭わなかった。
 楽しい時間が増えていくほどに、私の胸は塞いでいく。克彦に対するこれは、罪悪感に他ならなかった。
 私達は、ふつうのきょうだいに戻らなければならない。飼い主と犬などという、遊びは、ああ、本当に私はバカだった、都合よく、ごっこ遊びにして、克彦を振り回して、よくもいけしゃあしゃあと、普通のきょうだいだなんて! 思春期の体と心の変化、養育者としての機能をなさない両親、それにしたって、それにしたって。

 私は、克彦の気持ちを一度も斟酌したことがなかった。だから、彼が、何を、どう考えているのか、ちっとも、知らなかった。たった十四才だった、克彦少年の心のうちを。

 高校で初めての文化祭は素晴らしかった。放送部の仕事は多かったが、私達はそれをやり遂げた。私も幾つかの校内放送を担った。
 高校の文化祭は、外部に解放されていた。克彦も、文化祭に訪れていた。私は、克彦に模擬店の食券を渡し、楽しむように伝えて、すぐに彼をひとりにした。
 ひとり。克彦は、ひとりで文化祭に来ていた。友人達に慕われている人気者の克彦が。私の後ろ姿を、克彦がいつまでも見続けていたことなど、知らないふりで。

 克彦は中学生になって頻繁にラブレターを貰うようになっていた。告白の電話がかかってくることも。中学生の克彦は、携帯電話の類いを持たされてなかったので、少女達の勇気を、私が取り次ぐこともあった。
 だから、言い訳になるだろうか、いや、言い訳でも構わない。克彦が、彼女を作って、弟から男になることを、私は予感していた。犬としての克彦に縋り続けることで起こりうる悲劇を回避するために、私達はここで別れるべきだった。

 打ち上げは、カラオケだった。私は初めてカラオケに行った。楽しかった。みんなが笑い、おしゃべりをして、文化祭の余韻に浸っていた。
 土屋は途中で帰るとのことで、私が店の出口まで見送った。他の部員には、大いにはやし立てられた。別れ際、土屋に好意を告げられた。
「波多野さん、俺と付き合って下さい」
 私は、思わせぶりにはにかんだ笑顔で、「考えさせて下さい」と答えた。
 文化祭の打ち上げは、高校生らしく、夜中まで続いた。

 頬の熱も冷めやらぬまま駅に下りると、克彦が待っていた。
 星のない夜だった。克彦の白いシャツが、闇に浮かんで見えた。
 私は克彦に「お迎えありがとう」と言って、彼の頭を撫でた。並んで、文化祭の出来事をあれやこれやと話して聞かせた。打ち上げが楽しかったことも。克彦は黙って、私の、酔っ払ったみたいにまとまりのない話を聞いていた。
 家はしんとしていた。両親はもう休んでいて、克彦と私だけだった。
「先にお風呂入るね」
 私は背中を向けたまま克彦に言って、玄関を鞄においたまま、すぐに風呂に向かうと、脱衣所で服を脱ぎ始めた。制服を脱ぎ落として、下着だけになったところで、洗面台の鏡を見て、私は悲鳴をあげた。
 扉が少しばかり開いていて、そこに克彦が立っていた。
「か、克彦!? あっち行っててよ!」
 克彦はゆらりと頭を傾けると、両手で胸を隠した私を脱衣所の奥に押しやるようにして、脱衣所の中に入ってきた。
「……誰も彼も、俺を支配しようとする。勝手な思いこみを押しつけて、俺を支配しようとする」
「克彦」
「俺はいつも、あなた達の言うとおりにしていたじゃない。父さんの望む、立派な息子で、母さんの望む、優秀な息子で、先生の望む利口な生徒でいたじゃない。みんな俺を支配したがる。俺を支配しようとする。いい子ねとか、すごいねとか、言えばいいと思って!」
 克彦が声を荒げる。克彦は、大きな声を上げることが殆ど無い、大人しい子だった。けれど、そこにいたのは、克彦という殻を、犬という皮を脱ぎ捨てた何か。

「姉さん、あなたもそうだ」
 克彦の背はすでに私を追い抜いていた。ラケットを握る手には、筋肉が作る陰影が浮かぶ。
 尖った顎と、繊細な鼻梁、私達はよく似ている。私達はよく似た顔立ちのきょうだいで、それは、ずっと、もうずっと、それだけは変わることがない。
 円らな焦げ茶色の瞳が、力を持って私に迫る。
「いらなくなったからって、捨てちゃダメなんだよ、姉さん」
 足から力が抜けて、私はその場にしゃがみ込んだ。脱衣所の白茶けた灯りを背にした克彦は、別人のように見えた。
「さっき、土屋って人から電話があったよ。姉さんはもう帰りましたかって。誰? 姉さんの彼氏」
「違う」
「……昔、姉さん、俺に付き合ってる子がいるって、すごく怒ったでしょう。あれには痺れたなあ。姉さん、鬼? 般若? みたいに、顔すごかったもん」
「そんなの……そんなんこと……あった……」
「俺さあ、わかったんだ。姉さんは、俺をどうしても、支配したいんだって」

 克彦。私の弟。

「すごく痛かったし、怖かったよ。でもそれと一緒に、嬉しかった――。姉さんには、俺しかいないんだなあって。姉さんがあんなになるのは俺だけだから。リンゴ、食べさせてあげたでしょう。あの時も、姉さんには俺しかいないんだなあって、俺嬉しかったんだ。姉さん泣いて、かわいかったなぁ。また見たいなあ、弱ってぼろぼろになった姉さんはとってもかわいい。
「だから――姉さん、支配って、愛ってことなんでしょう。姉さんは、俺を愛そうとしたんでしょう。叩いたり、蹴ったり、罵ったりしながら、俺を姉さんのものにしようとした。姉さんの犬に。ひどいよね。でも、いいんだ、俺は全部許すよ。
「だって、俺は知ってる。姉さんは、俺に、自分がして欲しかったことをしていただけなんだよね。姉さんは、愛したいんじゃなくて、愛されたい。ずっと、誰かに愛されたかったんだよね。だから、土屋とかいう男にもころっと、姉さんに構わない父さんも母さんもいけないけど、姉さんって、案外放っておけないよね、やっぱり、俺がいないと、姉さんは。
「ねえ、姉さんは、支配されるより、本当は、支配されたかったんだよね。姉さん、俺を愛しているんでしょう、愛って、支配することなんでしょう。父さんも母さんも、姉さんも、俺を支配していた。それが愛なんでしょう。だから、俺が姉さんを愛してあげるよ」

 巣を張って獲物を待つ。獲物は糸で雁字搦め、突き立てられた牙から毒、毒が回る、毒、甘い蜜。

「今度は、俺が、姉さんを支配する」

 この、星のひとつも空にない夜、家の狭い脱衣所で、私は弟の女になった。

 

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