脱皮

 ――私と弟の接触には、常に痛みが伴う。

 

 思い浮かべてみて欲しい。
 セーラー服の女の子が、ベッドに座っている。肩につくくらいの黒髪をおさげにして垂らしているのがよく似合っている。官公庁のポスターに載っている女の子達みたいに、お花畑を背景にするのが似合いそうな、ピュアそうな、ああ、笑ってしまう、かわいい女の子。
 冬服の生地の固いスカートを履いていて、その下にはクルー丈の白いソックスを履いている。
 まだ残っている子供めいた華奢さが、ふんだんに振りかけたアラザンみたいだ。生クリームみたいな白い頬と、眉の下で切りそろえた前髪。
 その女の子の足下には、よく似た顔立ちの男の子が座っている。男の子は、女の子の足を、まるでシンデレラの靴を持った従者みたいに恭しく掲げていた。
 下の方がほんのりと熱気で曇った窓ガラスに、私達きょうだいは映っていた。

 私は弟の訴えを鼻であしらった。
「何それ、気持ち悪いんだけど。いぬごっこにそんなのないでしょ」
「気持ち悪くないよ。それに、俺は姉さんの犬だから」
 間髪入れず、弟に返されて私はむっとする。弟が言うにはこうだ、私が克彦のことを犬だと言ったのだから、本当の犬のように振る舞うべきだ。それを助けるのが良い飼い主であると。
「姉さんが飼い主なんだから」
 滔々と弁じ立てる弟に、私はいささか気圧された。そして、そのことに気づかれたくなくて、ますます弟をこき下ろした。
 頭おかしい、変態、異常者、弟を罵ったが続かない。喉まで出かかって言えなかった文句は「スケベ」「エッチ」「エロ」など、性に関係する言葉だ。中学生ともなれば、男女問わずセックスに興味がある。セックスという言葉は知っていた、意味も知っていた。私は不発弾になったそれらの言葉をぐっと飲み込む。飲み込んで、消してしまう。
 私は弟を卑しめているだけなのだから。
 だからこれは、「いぬごっこ」という遊びの範疇で、決してそのラインを越えてはいけない。けれど、「いぬごっこ」において、私は飼い主なのだから、飼い主たるべく、褒美を与えなければならない。
 克彦は、もう私と肩を並べるほどに背が伸びていた。まだ伸びるだろう。そして、もっと筋肉のついた、逞しい男になる。けれど、私は克彦を服従させなければならない。
「……いい、わ……」
 私は克彦に褒美を与えなければならない。
「……ご褒美をくれるの、姉さん。嬉しいな、とっても」
 克彦は私の言葉を聞いて、すっと立ち上がった。克彦に見下ろされた瞬間、私は克彦の頬を平手で殴った。
「誰が立っていいと言ったのよ!?」
 私と弟の接触には、常に痛みが伴う。私は返す手の甲で、逆の頬を打った。弟の形の良い鼻が、あっちを向き、こっちを向きする。
「姉さん、見えるとこは」
「うるさい! うるさい!」
 弟は顔を庇って、蹲る。そう、それでいい。克彦はいつでも、私の前で、申し訳なさそうに、小さくなって、ぶるぶる震えていればいい。
 そうでなければ、割に合わない。克彦は、男だと言うだけで両親に可愛がられ、期待されて、愛されて、織愛、あなたはいつも置いてけぼりのみそっかす。遠足の時の弁当でさえ、弟には母の手作りで、私には出来合いのものを詰め直していたのだから、これもまた、笑うしかない。母は、そんなにも私のために時間を割くこと惜しんだ。常に、弟の習い事の送り迎えなどの時間が優先された。
 克彦と私の差は、もう縮まることはないのだ。つとに、受ける愛情の総量で。
 克彦を愛する人間は沢山いた。私を愛する人間は誰もいなかった。私を必要とする人間は、どこにもいなかった。家族でさえ。
 私に残されたのは、犬にした弟、弟だった犬、ただ、それだけ。

 それが思春期の少女の極端な思考だったと、私は分析する。
 織愛という少女は、静かな養育放棄《ネグレクト》を受けていて、きょうだいは差別されていた。彼女は被差別者であり、無価値なものとして、扱われていた。
 人間の価値観は、その人が経験したものでしか形成されない。織愛という少女の世界は、家庭と学校という狭い空間でしか無かった。それ以外の場所に、彼女の居場所は無かった。だから、彼女なりに、私なりに、足掻いたことを責めることはできない。けれど、後悔せずにいることも、私にはできない。
 勉強が出来るというのはひとつのアイデンティティーになる。だから、猛烈に勉強した。中学生にもなれば、本当に勉強のできる天才肌の奴らと、必死にガリ勉する秀才、成績に一喜一憂しながら、試験前は勉強する凡才、とっくに諦めてしまった劣等生と、集団は徐々に層をなしてくる。
 私は、必死にガリ勉をする、凡人だった。克彦は、この事実は、とても受け入れがたい。私の弟は、全てにおいて恵まれていたと述べるにとどめたい。
 両親とすらうまくコミュニケーションが取れない私が、友人関係が豊かになろうはずもない。教室の隅で読書をして、休み時間を何とか過ごす。これは、端から見れば、むしろ私が他のクラスメイトを見下しているようにすら見えただろう。しかし、この時の私には、そうして活気溢れる教室で、置物のように時が過ぎるのを待つしか無かった。
 幸い、まわりはうまく騙されてくれた。用事があれば、私は親切に相手に応対した。そういった私の努力の甲斐あって、織愛という少女は、物静かで、優秀で、学級委員などの役を務めるにふさわしい器量を持った生徒だと思われていた。これも皮肉なもので、私が中学校を卒業する頃には、私の作り上げたイメージは跡形も無くなり、「あの克彦の姉」というイメージに取って代わられたが。
 大人になってしまえば、世界は自分で変えることができたかもしれないのに、私は待ちきれず、自分の世界を恨むことを選んだ。

 私は克彦の背中を蹴りつけ、踏みにじっていた足を下ろした。
 どっと疲れを感じて、私はベッドに身体を横たえた。
「……はっ……はっ……」
 息が乱れている。はあはあと、まるで犬のように、まるで犬のようだ。
「……はぁ……はぁ……」
 私が寝転がったベッドが軋む。私の足下が沈んで、克彦の手が、私の足首を掴んだ。
「姉さん。機嫌直して、姉さん」
「……うるさい」
 克彦の手が私の足から靴下を脱がせていく。熱がすっと逃げ、ひんやりとした空気が足の甲を撫でた。
「姉さん」
 指の間を濡れた感触が這う。私はびくりと身体を波打たせた。
 克彦は心得ている。私への服従の示し方を。彼はすすんで、私を舐める。犬のように。
 一日中、靴下をはいて、上履きに突っ込まれていた足だ。その指の股を、ひとつひとつ、克彦が舌で丹念に舐めていく。指の一本一本を口に含み、爪の生え際を舌でこそぐ。
 私は少しだけ頭をもたげて、私の足を舐める克彦を見遣った。
 白いベッドの上に仰向けになった私の足もとに、克彦は顔を埋めている。顔を伏せているせいで、睫の長さや、彫りの深さがありありと見て取れる。十二歳の克彦は、銀幕を飾った美少年に勝るとも劣らない、危うげな美しさを有していた。
 こんなにきれいな子が、私の犬。いいえ、私の犬だから、こんなにきれいなのだわ。
 なら、褒美をあげてもいいのかもしれない。
「……ご褒美、あげてもいいわよ」
 私は気だるげな調子を装った。克彦は、きろりと目だけを動かして、じっと私の命令を待った。
「匂い、嗅ぎたいんでしょ」
「姉さん」
 ぱっと克彦が私の足の指を口から離す。涎がつっと滴った。ああ、また、胸が痛い。つくつきと、ずくずくと。まだ胴の括れをもたない、不格好な成熟途中の身体が、どんな信号を発したとしても、少女織愛は、未知の感覚の正体を知らないままだ。
 克彦は四つん這いで、私の身体を跨ぐようにした。そして、その形のいい鼻梁を、私の制服の、脇の間に突っ込んだ。私はびっくりした。
「んっ、くすぐったい!」
 咄嗟に克彦の頭を押しのけようとするが、克彦は止まらない。――犬だからしょうがないのだ。
「こら! こら」
 克彦は私にのし掛かる。もがく制服の脇に、鼻面を突っ込んで、すんすん匂いを嗅いだ。
「……本物の犬みたい」
「姉さん、姉さん。わんわん、わん」
 下手な鳴き真似に、私はきょとんとして、抵抗するのをやめた。
 克彦は、私をその円らな焦げ茶色の瞳でじっと見つめ、
「本物の犬だよ。俺は、姉さんだけの犬だよ」
と言った。彼はその思いを込めて「わん」と鳴いたのだ、と私は理解した。
 じんと胸の先が疼いた。

 克彦の小学校卒業とともに、私達きょうだいは「いぬごっこ」という遊びを終わらせた。そして、克彦は、完全に私の「犬」になった。弟である克彦は、これを境にいなくなり、犬である克彦だけが残ったのだ。
 克彦が犬である限り、私は満たされることができた。
 克彦の生殺与奪権を握っているのは、飼い主たる私。だから、私は、克彦を可愛がることもできた。飼い主が犬にするようなことはそのまま、私達きょうだいが行うことができた。
 克彦は、私の顔を舐め、手を、足を舐めた。そこら中の匂いを嗅いだ。抱きしめられることを望んだ。私は、克彦の頭を撫で、頬にキスを――バカだった――して、いい子ね、と褒め言葉を与えた。主人に逆らった時は、見合う罰を与えることもできた。
 夏を迎える前になって、いつもと同じように、克彦が私の匂いをくんくん嗅いで、もちろん、脇や首筋に鼻面を押しつけて、「姉さん、ちょっと汗臭いよ」なんて言ったものだから、克彦に体臭チェックをさせることが日課になった。
「ひょっとしたら姉さんは、体臭がきつい方なのかもね」
 克彦のコメントに、私は総毛だった。自分の何もかもが気になってならない年頃だ。髪のはねひとつでも、誰かに笑われている気がして許せないのに、臭いなんて!
「俺が、ちゃんと姉さんの匂いを嗅いで、教えてあげるね」
 それから、毎朝と、毎夕に、私は克彦に匂いを嗅がせることにした。レッドカードならすぐにシャワー、イエローカードなら、制汗スプレー。
 中学三年生の秋、朝のことだった。いつもと同じように私の匂いを嗅いでいた克彦が、
「あれ」
と言って、首から脇へ、脇腹へと匂いを嗅ぎながら下へと顔をずらしていく。一五〇ちょっとで止まった私の身長を追い抜いた克彦の頭が、下へ下へと下りていき、スカートの下腹部で止まった。
「……血の匂いがするよ」

 その次の日の夜、私は初潮を迎えた。

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