遠雷

私は歩いていた。

それは困難な道だった。
歩いても歩いても到底目指すところには辿り着かないのではないかと、幾度も疑わずに入られない程のものであった。
それでも私は休むことなく歩き続けていた。

私の靴は踵から踝までしっかりと私の足を包んでいた。
しかし、足は冷気に侵され、足指は感覚を無くし、地面を踏みしめることも出来ず、私は杭のように足を地面に打ち立てた。
そしてその足を引き抜き、前へと突き刺す。
それがうまくいったら、後方に残された足を引っこ抜き、同じく前方へとめり込ませる。
そうやって私はゆっくりと歩を進めた。
うっかり足元への注意を緩めると、私は転倒してしまうのであった。
転倒してしまえば、起きることは歩くことの何倍も難しかった。
そのまま、凍えた地面に溶け込んでしまいたい誘惑と戦い、濡れたズタ袋のように重い身体をもう一度立ち上がらせる、そのような苦痛を味わうくらいなら、いくらもどかしくても一歩一歩を確実に地面へと突き降ろしていくしかないのだった。

そもそも私が向うこの道は、私の故郷へ続いているのだった。
私は故郷を離れ、都で何年かを過ごし、そして今故郷へと帰ろうとしているのであった。

故郷への道は都で過ごした私の足にとっては過酷だった。

私の故郷はとても貧しい国である。
土は栄養に乏しく、作物を育てるのに適さない。
更には水脈に乏しく、気候も温暖ではない寒冷地である。
畢竟、荒地といった体の国土には蕎麦や稗、粟といった雑穀を細々と栽培するしかなく、実際貧しい人々はそうして暮らしているのだった。
その国には太った人間などどこにも居ない。
誰もががりがりにやせ細っている。
節くれだった染みの浮いた浅黒い手を持つ人々は、休むことなく働く。
農閑期には手内職を、出稼ぎをして、そうしてやっと成り立っている家計ばかりである。

私は歩く。
ただひたすら、この故郷へとまっすぐ伸びた道を歩く。
歩けば歩くだけ確実に故郷は近づいているはずであった。
けれど、疲れた私の目に映る風景は、数刻前から全く変わらない。
ただの鬱蒼と茂った立ち枯れた林があるのみである。
私はしかし、足を止めることはしなかった。
止めてしまえば、もう二度と歩き出せなくなることはわかっていた。
私は何としても故郷に帰りたかった。
冷たい汗が背中を伝う。
足元から這い上がった冷気は私の身体を腰まで押し包み、今や身体は芯から冷たくなっていた。
一層足が重くなる。

遠くで雷が聞こえる。

私は都で若い時代を過ごした。
都は故郷とはまるで違っていた。
馬車が何台も並ぶ大通り、華やかな娘たち、露天に並ぶ異国の織物、白い壁の建物、溢れ返る豊かな匂い。
朝まで煌々と輝く町は、不夜城と呼ばれるにふさわしかった。
私は都で気の置けない友人たちと朝まで飲み歩くこともしばしばであった。
都を統治するのは偉大なる君主であり、その威光は隅々まで行き届き、都の治安はすこぶる良かった。
街は夜の顔を見せても、それは昼の清清しさを失うことなく、透明なまま太陽と月は交差した。
都に住む人々は総じて鷹揚で懐が深く、私は都の虜になった。

私は都で学問を修め、それを活かした職についた。仕事は順調であり、何の不満もないはずであった。

しかし私は故郷を目指した。

私の弟妹たちは生まれてすぐ死んだ。
それは貧しさゆえのことであり、珍しいことではなかった。
父は死んだ子供を家の裏の秋になると白い小さな花を咲かせる木の根元に埋めた。
母はその度に、木の根元では、その小さな身体に根が絡んで苦しがるだろうと泣いた。
父も母も文字に盲いているため、子供が死ぬたびに父母は村に唯一のかつて都にいたという男のところに行く。
帰ってきたときは、必ず、子供の名前を彫った石をその懐に抱いているのであった。
石は秋が来ると白い花びらに埋もれて、時を重ねるに連れて、石に彫りこまれた文字は薄くなった。

私は秋が来るたびに、少ないながらも収穫の喜びに浮き立つ父母の目を盗んで、白い花に埋もれている石を掘り返した。
そうして、掘り返した石を抱いて寝るのだった。

石は冷たく、いくらきつく抱きしめても決して温かくはならなかった。

私は秋になって、弟たちの小さな墓石が白い花びらに埋もれるたびに、代わる代わるその墓石を抱いて眠った。
私の身体が成長し、逞しくなるのと反対に、石は年々小さく萎んでいった。
私が都へと故郷を後にしたその日も、墓石は花に埋もれていた。
白い花が雪のように見えた。

雷が一層激しくなって、灰色に淀んだ空から白い切片が降りてきた。
白い切片は、一つが二つに、二つが四つにと、どんどん増えていく。

私の故郷では秋が過ぎれば、すぐ厳寒の冬がやってくる。
強烈な寒さに、人々は身をちぢ込めて、寄せ合って暖を取る。
口を開くことさえ、寒さのためままならず、言葉すら凍え、重苦しい沈黙が満ちる。
それを封じ込めようと、石くれだらけの土地を白く覆い隠し、雪は果てしなく降り続く。
一番苦しい季節だ。

弟妹たちの墓はもはや雪に埋もれ、判別がつかず、ただ白い花の木だけがぽつんと立っている。
木は花の代わりに枝に雪を乗せ、湿った重たい雪は、枝を撓らせていく。
私は締め切った窓の、薄汚れたガラスの向こうから、その枝を飽きることなく眺めていた。
いつその枝は折れるのだろうかと、眠れない夜さえあった。
そんな夜は決まって、雪は激しく吹雪いているのであった。

雪は止みそうになかった。
遠くで雷が鳴っている。
私が歩むべき道は白く閉ざされようとしていた。

私は空を見上げた。
濃い灰色の中から私の元へと白い切片が落ちてくる。
ひらひらと。
それはただひらひらと私を目掛け落ちてきた。

私は立ち尽くした。
凍えは全身に悪い酒のように回り、歯の根は噛み合わず、かちかちと耳障りな音を立てた。
私が帰るべき故郷は、もう白い世界へと塗り替えられているのだろう。

弟妹たちの小さな墓も雪に埋もれ、白く、ただ白くあるのみだろう。

吐く息は白く後方へと流れていく。
都へと薄く消えながら流れていく。

都の喧騒は遥か遠く、故郷は影も見えず、白く紗のかかった、凍てついた空気の中、私はひとり空を見上げる。
私はわずかの間待っていた。
雪ではない何かが天から降りて来はしないかと。
白い花びらの中に探した何かが、冷えた石の中に探した何かが降りて来はしないかと。

雪は激しさを増した。
私のまつげを凍らせ、唇を蒼白にした。
そして雪は雪でしかないのだった。

私は、完全に感覚の失せた足を前へ出した。
恐る恐る出した足は、地面の熱に雪が解け、茶色く汚れた霙になり、その上に積もろうとする真っ白な真綿色の雪を頼りなく踏んだ。
靴底で雪が汚れて滲んだ。

故郷は遠く、私は寒さに引き攣れた頬を温かいものが伝うのを感じていた。

01025

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